九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年12月号の記事です。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

明治維新の改革で、明治4年に藩を廃止し新たに県を設け、紀伊藩は和歌山県となりました。ところが、高野寺領は、堺県から五条県へ移り少し遅れて和歌山県に編入されました。

東郷村と幟

東郷村――楊柳山・銅が嶽・高野山の三山が水源となって流れる川が三尾川で、川沿いに東郷村と西郷村があります。 鎌倉時代の弘安8年(1285)の文書に村名が見られます。二つの村を合わせて当時は三尾川墨荘と呼んでいます。隣の丹生川村も炭香荘との記録もあるので、もともと三村で一つの荘であったのでしょう。(墨・炭香も漢字は異なるが同じ意味と解される。)

東郷・西郷は地名から判断して兄弟村であることは間違いありません。これらの村は、空海が高野山を開創する以前に人々が生活していたのか、それより後であるのか記録がないのでわかりません。

天正19年(1591)豊臣秀吉が東郷・西郷村を高野領と認めたとき、二つの村を一つとして生産高を割り出しています。江戸時代東郷村は学侶派大楽院・西郷村は修理料の支配下でした。

幟のつくられた年

明治5年(1872)5月13日和歌山県の地方行政組織を組み替え、郡制度を廃止して大区とし、その下に小区を設けました。

その結果、和歌山県内は7大区と61小区となり、伊都郡は第四大区、その下に7つの小区があります。現在の九度山町内各字は五小区に含まれています。(市平だけは第四小区)町外の字では高野町の細川・西郷、かつらぎ町の山崎・教良寺など七字も五小区で、第五小区は町内・町外を含め二十一ヵ村です。

五小区を別名九度山組とも呼ばれました。堺県以来、行政区は変遷していきますが、その地域を治める役所が九度山に置かれていたからです。

明治12年1月20日一度廃止された郡制度が復活します。

折角作った東郷の幟も、この日をもって終わりとなります。わずか5~6年の寿命でした。

さらに、明治17年7月1日村の再編成を実施し、東郷・西郷・北又・高野山・西ヶ峰・柏原・杖ケ薮・大滝・南・平原・細川・相ノ浦・林・東又の十四ヵ村が一組となり高野山に役場が置かれました。これが明治22年の町村制施行まで続きます。

庄屋から戸長・用係・区長へ

明治5年大小区制となって、庄屋は廃止され、二~三ヵ村に一人の戸長、各村に庄屋にかわって副戸長を選任しました。

明治17年の村の再編成の時からは副戸長は用係となり、明治22年町村制の施行から区長となっていきます。

このように村を治める人の役職名は変わりますが、明治5年から明治22年まで名称の変わらなかったのは、村の事務をおこなった戸長役場です。幟は大小区制当時この戸長役場に立てたのでしょう。

明治維新の変革を当時の人々は「御一新」と呼び、村の生活も変革しようといろいろ試みています。その現れが幟に表現されていると思います。