敷島公園は、利根川と広瀬川に挟まれた場所に37.6ヘクタール(県管理のスポーツ施

設区域17.8ヘクタールと市管理のレクリエーション区域19.8ヘクタール)の広大な面

積を有し、全国でもめずらしい約2,700本の松が茂る松林や、市管理区域には、生糸

のまち前橋をしのばせる蚕糸記念館があります。

さらに、600種7,000本のバラや四季に咲き誇る花木の見られる「ばら園」・ボート

池・こどもの広場などがあり、人々のレクリエーションの場として親しまれています。

 

朔太郎記念館は平成29年4月に移築となりました。

 

(前橋市ホームページより)

敷島公園の松林一帯は、古くから小出河原と呼ばれていたが、大正十四年公募によっ

て「敷島公園」と命名された。最初の大渡橋開通から四年後のことであった。公園内

に自生する黒松は県木であり、およそ三千本といわれている。詩人萩原朔太郎は、こ

の地をこよなく愛し、郷土望景詩「利根の松原」の作品を残した。朔太郎の「帰郷」

詩碑は、ばら園内の松林の中にある。この松林こそ"水と緑と詩のまち"のシンボルで

もある。







 

「お艶が岩」と「お艶観音像」

 

この"お艶が岩"には、こんな話が伝えられています。

「お艶とは」、実は"淀君"だったということです。淀君といえば豊臣秀吉の側室で、

慶長二十年(1615)大阪夏の陣に際し、わが子秀頼とともに大阪城の天主閣で炎の中、

自刃したと伝えられています。

ところが、対岸にある元景寺に伝わる話によりますと、淀君は、大阪夏の陣に出陣

した総社城主秋元長朝の陣に助けを求めてきました。長朝は、淀君を篭に乗せ木曽

路を通り総社に帰りました。もちろん当時、淀君をかくまったとあっては、たいへ

んなことですから、"大橋の局御縁"と呼んでいました。その後、幾星霜、この城で

なに不自由なく過ごしていた淀君でしたが、過去の悲哀に耐えきれず、遂には世を

はかなで、この岩の上から利根の激流に身を投じたといいます。この"御縁"が、語

りつがれていくうちにいつしか"お艶"にかわり、だれというとなく、この岩を"お艶

が岩"と呼ぶようになったということです。総社の元景寺には"淀君の墓"といわれる

お墓があり、淀君が使ったという、お篭も残っています。

「お艶観音像」は、敷島公園愛護会がお艶三百三十年忌に際して、昭和三十四年四月

日展審査委員 山本雅彦氏に制作をゆだね建立したものです。

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