「お艶が岩」と「お艶観音像」
この"お艶が岩"には、こんな話が伝えられています。
「お艶とは」、実は"淀君"だったということです。淀君といえば豊臣秀吉の側室で、
慶長二十年(1615)大阪夏の陣に際し、わが子秀頼とともに大阪城の天主閣で炎の中、
自刃したと伝えられています。
ところが、対岸にある元景寺に伝わる話によりますと、淀君は、大阪夏の陣に出陣
した総社城主秋元長朝の陣に助けを求めてきました。長朝は、淀君を篭に乗せ木曽
路を通り総社に帰りました。もちろん当時、淀君をかくまったとあっては、たいへ
んなことですから、"大橋の局御縁"と呼んでいました。その後、幾星霜、この城で
なに不自由なく過ごしていた淀君でしたが、過去の悲哀に耐えきれず、遂には世を
はかなで、この岩の上から利根の激流に身を投じたといいます。この"御縁"が、語
りつがれていくうちにいつしか"お艶"にかわり、だれというとなく、この岩を"お艶
が岩"と呼ぶようになったということです。総社の元景寺には"淀君の墓"といわれる
お墓があり、淀君が使ったという、お篭も残っています。
「お艶観音像」は、敷島公園愛護会がお艶三百三十年忌に際して、昭和三十四年四月
日展審査委員 山本雅彦氏に制作をゆだね建立したものです。
|