奥松島月浜海苔生産グループ月光


代表の山内良裕さん、グループの皆さん

JR松島海岸駅から車で約30分、被災直後は自衛隊も入れなかったという。今でもまだ巨大な瓦礫が残る道を進むと、その先にぽつんと奥松島月浜の仮設集落が現れる。震災直後、道路が復旧開通するまでの3週間、救援物資は船で運ばれたとのこと。海上輸送、島の暮らし。

 

 

 

写真は「月光」への支援を呼びかけるチラシ 「我々月光はたくさんの方の応援を力に変えて進んでいる。中でも月光立ち上げ当初の暗中模索状態の時からJICA復興推進員の方々に計画立案の際の情報やアドバイスを貰っていて、このチラシ作製もそう。推進員の福原さんにはブログやフェイスブックの指導や、地域の仕事もして貰っている。本当に有難いよ」と代表の山内さん。長年、家族単位で仕事をしてきたこの地域。一軒一軒が養殖場、加工場、種付け用の船、漁に出るための船、民宿、自宅を持ち、それぞれの家に伝わる「企業秘密・こだわり」を受け継いで海苔養殖業を守り育ててきたが、津波で家屋敷や養殖施設の一切を失い、共同で事業をするためのグループ「月光」を立ち上げた。「今後は企業秘密・こだわりを持ち寄り、より良い海苔を作り上げたい」とみんなが話す。ここ月光には若者が多い。

 

海苔の養殖のほか、あわび、うに、あさりなどの漁、そして民宿をなりわいとしてきたこの地域では、子供も立派な働き手。月光のメンバーも、学生時代は、学校では他の若者とバンドを組んだりしていても、家に帰ると仕事が待っている毎日。「だから、わざとゆっくり帰ったりするのさ」と鈴木さんがボソッと話す。そうそう、とうなずきながら、小野さんが、山内さんが、みんなが顔を見合わせて笑う。「震災後に道路が開通した時、最初に、みんな何したと思う?」代表山内さんの問い。答えはお風呂。「何度洗っても泡が出ないのよ」小野裕俊さんが、真義さんが、思い出しながら声をそろえて笑う。鈴木さんが、山内さんがそれを聞きながら、「んだなぁ、自分の皮膚じゃないみたいだったなゃ」と笑う。月光の若者は、本当にころころと笑う。

 

 

ここ月浜には「えんずのわり」という小正月の鳥追い行事があり、毎年1月11日から一週間、小学校2年生から中学校2年生までの男の子が、五十鈴神社の参道にある岩屋で寝食をともにする。こだわりを持って個人経営をしていた海苔養殖者たちが今一致団結出来るのは、この伝統が影響しているのかもしれない。

 

 

手前左から山内良裕さん、小野真義さん、小野裕俊さん 後方左から小野誠さん、鈴木光博さん、山内健史さん共同化し、個人負担を減らすことで、海苔養殖業を再建できると決意した月光の若者たち、そして代表の山内さん。だが共同化の目的は事業再建だけではない。ここ月浜の業態を、若い世代が新規参入できるように変革していこうとの狙いもある。震災前から減り続けていた子供、そして跡継ぎ。その原因として個人経営による金銭面、労働条件面での負担の大きさがあると考えたのだ。


「月光」の先には、未来に向けた海苔養殖業のあり方、宮戸地区のコミュニティのあり方が見える。
 

 

・ 「月光」オフィシャルサイト

http://www.gekkoh7.jp/

・ 「月光」Facebookページ

https://www.facebook.com/gekkoh7

 

(取材日:2012年3月2日 ネットアクション事務局 前田由美)

 


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