日本の昔話/会津の鶴塚 について知っていることをぜひ教えてください

会津の鶴塚

昔奥州の会津に、常安という長者がありました。この長者も何百と算えることも出来ない倉を持ち、その倉に一ぱいの金銀と米、その他色々の宝物を貯えておりましたけれども、子というものが一人もいなくて ―中略―

仕方がないので、鶴を飼って子供のように可愛がっておりました。鶴は長生をする鳥だから、永く長者の跡が残るだろうと思って、それを子供の代わりに育てておりました。ところがどういうわけかその鶴がまた死んでしまいました。長者夫婦は非常に力を落として、鶴の為に大きな塚を築きました。それが鶴塚と謂って今でも残っております。そうして長者の家の跡は、もう何処だかわからなくなってしまいました。「日本の昔話/柳田国男より抜粋」

会津三十三観音「大木観音堂」

会津とは、福島県の西部に当たり、西に越後山脈と東に奥羽山脈挟まれた日本海側内陸の地域(Wikipediaより)。このお話の主人公である長者、常安を調べてみますと、福島県喜多方市塩川町大田木字塚田にある会津三十三観音の真言宗紅梅常安寺第1番札所に、常安長者が持仏の十一面観音像を納めたとされる「大木観音堂」に行きつきます。

会津三十三観音は、遠方であるお伊勢参りなどに行けない人々のためにと、徳川秀忠の4男、家光の実の弟であり、家康のいわば孫である初代藩主保科正之公により創られたもので、保科正之公は、幕政では、玉川上水を開削して江戸市民の飲み水の安定供給をさせたり、明歴の大火後(1657年)には焼け出された庶民を救済するだけにとどまらず今後の大規模火災に備えて主要道の幅を6間から9間へと拡張、両国橋の新設、神田川の拡張などを始めとする防災政策、福祉政策、都市整備に力を注がれた。また、藩政では、90歳以上の老人には、身分を問わず玄米を一日につき5合を支給したといわれ、「日本の年金制度」を始められた人物であるといわれている。正室に知られないようにしての誕生であったことから、武田信玄の次女に預けられ、高遠藩主の保科正光の養子となり、寛永8(1631年)三万石の藩主となり、家光の死後、遺命により甥である家綱の補佐役である大政参与として文治政治を推し進めた人物である。(Wikipedia保科正之を参考)

 

この昔のお話が伝えたかった事

家を、また一族を、もっと大きな括りで考えるならば国というものの永きに渡る繁栄には、人を大切にせね成り立ちはしないのだという事を伝えているのだというように感じたものです。常に安定している、常に安心できるという名を持つ長者常安は、これ以上はないというほどの富に恵まれますが、それを引き継ぐ者が欠けておりました。子供の代わりに可愛がっていたとされる鶴は、天からやって来て天へと帰る、神さまの乗り物と言われたり、祈りを込めると願いが聞き入れられるなど、神さまにとても近い存在と考えられていたと思われますが、このお話の中では、その鶴も死んでしまい、やがてはすべてが跡形もなく喪失してしまいます。たまたま偶然であるのかもしれませんが、会津は養子として育て上げられた保科正之公により治められた土地であります。人を大切にすることが、最終的には、個人のみではなく、国までも繁栄し続けさせる要なのだとあくまでも憶測ながらも受け止められました。

 

「2017/2/25 菅原由美」