日本の昔話/蟹淵と安長姫 について知っていることをぜひ教えてください

隠岐の島

隠岐の島は、島根半島の北東約80㎞、外周151㎞(宍道湖の約3倍)面積242.83㎢(琵琶湖の約36%)からなる島で面積の約80%が森林であるという。500万年前に形成されたといわれるカルデラ地帯。気候は、一般的に裏日本型気候で近海に流れる対馬暖流の影響を受けており、その為夏冬の気温差が比較的少ない。海岸性気候であることから厳寒期を除き通年温暖。生物系も他の地域に生存する一般動物である熊や鹿、狸、狐などが見られない代わりに、隠岐の兎、隠岐サンショウウオ、隠岐マイマイなど隠岐の島固有の生き物が見られる。「隠岐の島町HPを参考」

 

歴史文化

島根県、隠岐の島と言えば、歴史上、後醍醐天皇・後鳥羽上皇など位の高い方々が流された場所ということで、大変印象深い地域である。私の拙い想像ではあるが、命を脅かすほどの猛獣も生息せず、気候もまた厳寒期を除いて温暖であったということも、高貴な方々を軟禁する場所として適していたものかもしれない。また、古事記の「因幡の白兎」を頭に、民話や神話・伝説の宝庫でもある。

 

「蟹淵と安長姫」

むかしむかし隠岐の島の元屋という村に、年とった一人の樵がありました。或る日、安長川の奥に入って、滝の後ろの山で木を伐っていましたが、つい誤って手に持つ斧を取り落として、滝つぼの小さな円い淵の中に沈めてしまいました。そうすると忽ちその淵に浪が起り水煙が立って、そこら辺が真っ暗になりました。そうして水の中から黒い棘の生えた棒のような物が、浮かび上がってきました。爺はこの様子を見て非常に驚き怖れて、一目散に山の麓の方へ逃げて来ますと、後からまことに優しい声で、爺よ、少し待っておくれという人があります。振り返って見ると、絵にあるような美しい若いお姫様が、ちょうどその滝のところに立っておられました。私は安長姫といって、昔からこの淵に住む者だが、何時の頃よりかここには大きな蟹が来て住むことになって、夜も昼も私を苦しめていた。今日はそなたが斧を落としてくれたによって、悪い蟹は片腕を切り落とされて弱っている。 ―中略― 

まだ片方の腕が残っているので、安心をしていることが出来ぬ。....どうかもう一度この斧を、滝の上から落としておくれ....。....再び元の山に戻って言いつけられた通りに、その斧を高い所から滝壺に投げ入れますと、姫神は大そうお喜びで、これから後は富貴長命、何なりともそなたの願うままと言って、林に帰っていかれました。......そうして川の名を安長川、滝壺を蟹淵と呼ぶようになったのだそうです。この川の流れはどんな旱の年でも水が絶えませぬ。そうしてこの水の神に雨乞いをするときっと雨が降るということであります。(隠岐周吉郡)「日本の昔話/柳田国男より抜粋」

 

蟹淵と安長姫が伝えはじめられたのは干ばつ期?

お話の冒頭が「むかしむかし」とあるために、口述され始めた時代が明確ではないため、仮に天保の大飢饉(1837~)の頃の気候と比較してみますと、中国地方のあたりもまた例にもれず大雨に悩まされていたと考えられます。しかし、この「蟹淵と安長姫」から得た情報はと言えば、「水の神に雨乞いをするときっと雨が降る」といういわば、雨を得たいという願いがかけられていたと思われ、干害が想像できるものです。そこで、日本での干ばつ期を調べたところ、気候が激しく乱れた天保の大飢饉に近い時期でいうと1740~1760年代・1790~1810年代と考えられます。(日本地理学会発表要旨集を参考)

また、もっと時代を遡り民話の伝承がはじめられたのが柳田国男氏の研究から800年前と考えられることから、干ばつに悩まされていた平安時代の後期とも考えられます。「気候で読み解く日本の歴史を参照」

 

「2017/2/17 菅原由美」