戦国時代の梅干

 

江戸時代に著された「雑兵物語」には、戦に明け暮れる武士は、食料袋に『梅干丸」を常に携帯していたと書かれている。梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調えたり、生水を飲んだときの殺菌用にと多いに役立った。また、梅千のスッバさを思い、ロにたまるツバで喉の渇きを施したそうである。

 

鎌倉時代の梅干

 

武家社会のもてなしは「椀飯」と呼ばれ、クラゲ・打ちアワビなどに、梅干や酢・塩が添えられたご馳走だった。兵士の出陣や凱旋の時に縁起がいい食物として、また、禅宗の僧は茶菓子として、梅干を用いた。※「椀飯ぶるまい」はここからできた言葉である。

 

明治時代の伝染病

 

明治1年、和歌山でコレラが発生し、翌年にかけ1768人の死者が出た。この時、梅干の殺菌力が見直され需要が急増する。また日清戦争の頃、軍医の築田多吉が、外地で伝染病にかかった兵士に梅肉エキスを与えて完治させ、梅干の薬効を実践した。

 

紀州の梅干

 

江戸庶民の梅干を食べる習慣が、全国に広がるにつれ、梅干の需要はますます多くなった。特に、紀州の梅干は「田辺印」として評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が梅詰めされ、江戸に向け、田辺港から盛んに出荷された。