室蘭飛行場 について知っていることをぜひ教えてください

「新室蘭市史」によれば、1935年(昭和10年)3月18日に、室蘭市議会が「市営飛行場」の建設提案を可決した。札幌-東京の定期航空路の要衝としての役割を果たすためのものだったという。同年7月1日、八丁平の市有牧場内に延長300m、幅115mの飛行場の造成に着工し、9月30日には、地ならしをしただけの粗末な滑走路が誕生した。しかし、1機も飛ばないうちに太平洋戦争に突入し、軍用飛行場として、市民の勤労奉仕による建設作業が始まった、とある。
(「アメリカが記録した室蘭の防空」 2014年,工藤洋三・鈴木梅治著 より引用)

最盛期には滑走路の延長は1300mに達し、軍用機4機が駐機していたものの、昭和20年7月の室蘭艦砲射撃・空襲の際には1機も飛び立つことなく破壊されたと聞きます。

 

 

 

 


室蘭飛行場の痕跡を探して

(とある会社員のスチャラカ日記より引用)

先の大戦末期、室蘭にも陸軍の飛行場がありました。
場所は室蘭市八丁平。しかし、結局1機も飛行機が飛び立つことなく破壊され、終戦を迎えたと歴史には記されています。

戦後70年近く経ちますが、その痕跡がどこかに残ってないかと思って探してみました。

八丁平の区画を決める上で、恐らく基線になっているのは八丁平中央通。バスも通るメインストリートですね。
これに対して、主に東側に不自然な区割りになっている区画があります。
このあたりから線を引き、西側のこのあたりまでが、どうも飛行場のあった場所のようです。

室蘭飛行場の推定地

このあたりは、自動車学校を作れるくらいに平らな地形で、住宅地になっているあたりも異様に平らです。
自動車学校から北東に走る道路を実際に走ってみましたが、ここは不自然に直線的な斜面が続いています。
東京に帰ってきた後、国土地理院の地図サービスで見たら、間違いなく道路に沿って斜面が続いています。
そして、飛行場の跡と推定している赤枠の中はほぼ平らであることがわかります。

逆に、この赤枠の外は、山の地形らしく、結構な起伏が見られます。

最後に、A地点にある八丁平1号公園の写真です。

画面奥に不自然に直線的な斜面があり、
手前側が平らになっているのがお分かり頂けると思います。 どうもこの場所が、かつての八丁平飛行場の跡地と見て間違いなさそうです。

[2016/01/24 山田 正樹]

 


室蘭飛行場前史

「室蘭新市史」による1935(昭和10)年の市営飛行場の建設が可決された4年前に記された「北方定期航空路開発促進の件」という請願書が存在する。内容は、国内外での航空事業開設が進む中で、“我が国の定期航空路は東京以西に偏っており、時勢的にも樺太を含む北への定期航空路の開設が必要”と訴えている。

請願者の一部

請願者は、北海道倶楽部(昭和2年設立)理事長の美濃部俊吉ほか18名とある。連名の18名については、北海道在住者のほか、関係の深い当時の主要な面々が名を連ねている。

うち、室蘭関係では、室蘭商工会議所会頭の楢崎平太郎と、室蘭市長の松尾豊次の2名がある。楢崎は有名なので割愛(後述)し、松尾市長に着目する。松尾市長の任期は昭和4年2月1日から昭和10年2月25日までの2期であった。請願書の時点では市長1期目の2年目である。そして、飛行場の可決は退任直後となっている。この任期より、松尾市長のもとに飛行場計画が進んだと推察される(議会等の議事録があれば明らかだが…)。

このような計画が進んだ昭和初期の室蘭の情勢はというと、大正中期までに鉄鋼、造船、海運等で商工業都市として不動の地位を築きながらも、人口的には大正中期以降昭和10年頃まで5万人台の横ばい続き(発展停滞)の時期であった。

また、当時の北海道の飛行場事情は、大正末期以降、室蘭を含む道央の複数地域で飛行場開設の動きが進みだした。1926(大正15)年に旧北海タイムス社が札幌市北24条西8丁目以北の土地を滑走路として使用しはじめ、翌年には飛行場を造成した。千歳でも大正15年に小樽新聞社(現北海道新聞社)が札幌から千歳上空に飛行機を飛ばすことを契機に、地元住民主導で着陸場を急遽造成し、現在の空港の始まりとなった。いわゆる定期航空路が最初に開設されたのは、昭和12年、札幌飛行場と東京を結んだ航路である。

こうした状況を顧みると、計画立案時の昭和初期には、まだまともな飛行場も航空路もなく、混沌とした状態で、その中で室蘭では工業都市の発展や当時の飛行距離等も勘案して、飛行場の必要性を打ち出した(先取りしようとした)のではないかと推察される。

 昭和2年頃のチラシにも室蘭に飛行場が

一方、「北海航空拓殖計画」なる新日本社(東京)のチラシ(23cm×11cm)が存在する。右側に御即位、拓殖60年、北海道第二拓殖の記念とあることから、昭和2年頃の作成と判断できる。作者は新日本社社主で上記請願書の企画立案に深く関わった(企画当人と思われる)石川貞治である(チラシの筆跡等より曾孫の筆者が確認)。

このチラシより、昭和6年の請願書の4年ほど前には北方航空路の開設に向けた活動が始まっていたことになる。

では、昭和2年以前から室蘭に飛行場計画があったのだろうか?。推察の域を超えないが、ここで楢崎の関与や影響が考えられる。楢崎は北海道及び室蘭の発展を期して各種事業を企画・起業してきた人である。その一つに、1918(大正7)年、現在の千歳(当初安平)から穂別、占冠を経て南富良野(金山)を結ぶ金山鉄道(のち北海道鉱業鉄道)の設立がある。楢崎は発起人であり免許出願者でもある。石炭等の鉱石や木材等の輸送を目的としたが、距離及び地形的にも厳しい路線で部分開業を繰り返し、一部は国鉄富内線となるが、全線開業には至らなかった。金山鉄道の発起人及び出資者には石川貞治も名を連ねている。石川は明治20年代以降北海道庁及び民間で地質調査や炭鉱・油田開発を手がけた技術者である。明治30年代より石狩や厚真で油田を開発し、明治36年には石油の貯蔵・移出を目的として室蘭輪西村に10万坪の土地を購入したとある(1)。そのような経緯で、昭和初期には楢崎とも旧知の状態にあり、札幌とは一定の距離のある室蘭にも飛行場を計画したと推察されるのである。

なお、楢崎はこの請願書をしたためた同年(昭和6年)に没し、石川もまた翌年(昭和7年)に没している。 

出典(1):株式会社イントルナシヨナル、オイル、コンパニー札幌出張所、事務沿革概要(明治40年頃記)