海洞第3部 海洞の契り

 

異なることが人間の基本的な条件

政治家であり母の従兄である南原徳蔵の東京の自宅に身を寄せたことで、清隆は自分の経験値には無い他者の様々な人生と向かい合う機会を得ることとなる。時代は、みんな血まなこになって新しいことを探している真っただ中である。南原徳蔵の選挙運動を手伝ったことが縁となり臨時の秘書となった黒川という「売らなかったのは麻薬ぐらいなものだ」と自称するいわば海千山千とも言える男が経営するクロカワ・ワールド・プロダクションの総務部長として清隆は迎え入れられる。「ララミー牧場」などの外国映画を翻訳して吹き替えする会社の総務部長とは名ばかりなもので、清隆の意思に大きく反する半ば恐喝じみた金策までを担わされる。

荒んだ心を紛らわせるかように様々な事情を持つ女性たちとの関わりを築いては崩して行くが、繰り返される度に清隆の心は打ちのめされてゆく。

そんな折、プロダクションの前の総務部長であった白鳥という男と出会う。白鳥は、クロカワ・ワールド・プロダクションを辞めてから大成し、黒川同様手段を択ばず大金を儲けては名を馳せる成功者に上り詰めた男であったが、「金など世の中にない方がどんなに気が楽かと思うことはありませんか」と言い残した後、当時売れっ子の芸者と隅田川の船の中で心中してしまう。同じ日本人でありながら、金儲けの亡者である事に自信を持つ黒川と対照的に自分自身を蔑視する白鳥の存在。これもまた生い立ちから来る心の葛藤がそれぞれの胸に秘められてのことだと知る。

 

まるで亡き母が引き合わせたようなアイヌの女性との縁。母の形見の観音像が祀られている室蘭の海の「アフンルパロ」と言われる洞窟の写真が高く評価されたことで従兄である孝男の個展が東京で開かれた。アイヌの女性とその兄源作らによってアイヌ民族の礼拝が行われ、踊りや歌が披露される。祝いの為に居合わせた清隆が気持ちの高まりを「滅びゆくもの、失われてゆくものに対する哀惜の情、そんな思いが伝わって来ます」と発してしまったことで、源作を深く傷つけ、憤慨させてしまう。「今、何と言った。『滅びゆくもの』と言ったな。シャモはいつもそう言うんだ。勝手にアイヌを滅ぼしておいて『滅びゆくものの哀れ』などとは笑わせる。同情するふりをして内心では保護者然と優越感を抱いているのが見え見えだ」(海洞第三部より引用)   

 

アイヌ文化は奥深く、その苦難の歴史は計り知れないものである。(あとがきより引用)

源作の言葉は確かに清隆を揺さぶった。(中略)「アイヌもシャモも同じ日本人ではないか」というような甘えがどこかになかったろうか。それが、源作の言うように日本人の「優越感」を隠す口実になっていなかったろうか。甘い博愛主義、人道主義が清隆の心を春霞のような夢に包んでいなかっただろうか。

とにかく違うのだ。まずそこから出発しなければならない。「同質だと思っていた日本の社会の中で初めてぶつかった異質な民族の地層の激しい反発力に清隆は驚いた。しかし考えてみれば、彼にとってそれは最初の体験ではないのだ。十年前にアメリカに行った時に彼が直面したのはまずそれだった。アメリカからヨーロッパへと、様々な人間に出会いながら、異なることが人間の基本的な条件だと理解するようになっていたはずである。民族だけではない。一人一人がそうなのだ。(中略)人は違いから学ぶ。同じものには興味は持たない。ところが、似たような顔の人間ばかりが共同体意識の中で生活している日本の中で、清隆はついうっかりし、安心していた。源作に逢って初めて彼は日本にも異邦人がいることに気が付いたのだ。そして異邦人である自分にも。」(海洞第三部より引用)

 

    

 

人が成長するという事

人は自分以外の人生に巡り合うことにより成長するものなのかもしれない。常に自分ばかりを生きていると、あたかも周りに居る人間も同じ環境の元で生まれ育ち、物事を捉える目も、受け取る感情も自分が持つ物差しに当てて考えてしまいがちである。相手にとってもまた自分が異邦人であるのだという事を忘れがちなものだ。お互いにまるで自分と同じ人格と錯覚しながら向かい合ってしまうことで、本来惹かれあうべき違いが理解しがたい違和感へと形を変えてしまいがちであるように感じもする。ここに引用させて頂いた民族の違いや国による違いは奥が深く、容易にここで触れられるものではないが、性別や親子、友人など身近な人たちとの違いに置き換えて考えてみることも有意義だと感じた。人が成長するということはそれぞれの違いを敬意を持って受け入れることにより得られる褒美のように思えた。

〔2015/11/23  撮影 倉地清美氏/櫻井孝氏  文 菅原由美〕