許す言葉「しかたないさ」 について知っていることをぜひ教えてください
許す言葉.......「しかたないさ」
室蘭初の芥川賞受賞作家…..八木義徳
八木文学は、自らが選ぶことの出来ない出生からの旅立ちの為に生まれた……。
1924年北海道庁立室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)に入学し、北海道帝国大学附属水産専門部製造科(現在の北海道大学水産学部)に進学するも中退。1933年第二早稲田高等学院を経て、1935年早稲田大学文学科仏蘭西文学専攻に入学し、1938年3月に卒業。
(参考:ウィキペディア 八木義徳)
上京した八木義徳は、神田お茶の水の文化学院で行われた国際文化研究所が主催する外国語講座のロシア語講座に入り、ここで行われた講習会「プロレタリア文学講座」で小林多喜二、宮本百合子、佐多稲子の講演を聞き、左翼思想プロレタリア文学に魅せられてゆく
(参考:「私」を走る―八木義徳伝 川西政明)
誰もが憧れる恵まれた教育環境に身を置きながらも、当時の文学の主流であったとされる左翼思想プロレタリア文学への関わり。
逮捕される現実から逃避する為に渡ったハルビンの地での自殺未遂。
どれもが、裕福であった父から出たお金により得たものであり、そこから逃げ出したいともがいた末、起こった出来事でもあったのだろう。
1911年(明治44年)東京帝国大学医学大学卒業後雇われて町立室蘭病院長となった父と、室蘭町で芸妓をしていた母の間の次男として生を受け、父親からの認知は受けているものの、今で言われるところの婚外子という生い立ちを持つ。
八木義徳氏が描かれる小説の世界は、父と八木義徳、父の家族と八木義徳、父の家族と母、父と父の家族と母と八木義徳の関係を、終生の主題とされたもので、その置かれた複雑な環境から発した生存の陶酔感、恐怖感、罪と救いと和解へと到達させるがために作家への道を進み、私小説を書き残した。(参考文献:講談社文芸文庫、八木義徳名作選「私」を走る-八木義徳伝 解説 川西政明 より)
『劉廣福(りゅうかんふう)』 芥川賞受賞作品
早稲田大学卒業後、ミヨシ化学工業株式会社に入社した彼は、満州理化学工業株式会社を設立させるために奉天に渡る。
その時に、雇いれた工人、それが劉廣福という実在の男との出会いである。
劉廣福は、常人の確実に2倍はあろうと思われる並外れた巨大な体、不釣合いな童顔で、子供がクレヨンで描いた漫画にそっくりなほどに愛嬌に溢れていた。
彼には酷い訛りがあったため、言葉を発する度に死ぬほどに顔を変形させるほど苦しむのであり、字も書けず、生年月日もはっきりしない。いわば工人として、危険物を取り扱わせることが出来ない類の人間に見えたが、他の工人とは違い、狡さや欲のない正直な人柄に惹かれ、八木義徳は身元引受人となってまでも雇い入れることとなる。
劉廣福に与えられた身分は、雑工の中の雑工であり、30歳の男が生きていけるに値しない低賃金、重労働の数々。
普通ならばひと月ももたずに逃げ出す待遇。
会社のトラックが衝突事故を起こし、4人の運搬工全員が大怪我で仕事が立ち回らなくなった時にも、尋常ではない働きをする。
ただひとりで1本80キロもの鉄筒を1日平均200本トラックへの積上げ下ろし、得意先への配達までこなしてしまう。
誰に認められずとも、仕事は手まめで迅速で念が入っており、難問中の難問を見事なまでに解決していく。
当然、劉廣福の地位は確実に上昇していく。
親方が、たえず疑問に思うのは、何故逃げもせずに最低待遇のここから抜け出そうとしないのか?
ひょんなことから、その疑問に答えが見つかる。
どの世界にも足を引っ張る輩は存在し、工場内からの盗みの汚名を着せられ警察に連行される劉廣福。
欲がなく真っ正直な劉廣福をどうしても疑うことができない親方の前に、よく利用している料亭の下働きの同郷の女性が現れる。
どんなに蔑まれ、想像を絶するほどに苦労をしても、この子が覚えていたこの工場で働き、結婚する為のお金を稼ぎたかったのだ。
劉廣福は愛の為にどんな苦労をも厭わなかった。
陥れられることで汚名を着せられた彼が工場に戻り、全面的に疑った周りに発した言葉はただ一言。
「しかたないさ」 と言っただけ、それですべてを水に流す。
新参の工人の不注意で、あわやガス爆発による大惨事が起こるのを食い止めたのも劉廣福だった。
彼は、昏睡し、もう助からないと思われるほどに、顔面と両手に大ヤケドを負った。
痛みに苦しむ彼から片時も離れず、なだめたり、すかしたり、ときには叱ったり。
いかにも手際よく彼の苦痛を紛らわす。
誰しも疑いようがない瀕死の彼を蘇らせたのが、何者にも代え難い彼女の存在であった.......。
この作品から、教えられたものがある。
それは、許すということ。
そして、「しかたないさ」と許すことで、本当の幸せを得られる。
許すのは、他の人だけではない。
おそらくは、自分自身のことも......。
人の価値は心で決まる。そして、誠実に人を信じることが重要なことなのだ。
八木文学は、生い立ちに納得できない自分自身への葛藤から生まれたものでありながらも、劉廣福などに始まる「人との出会い」の中で、全てに和解し、許す心が芽生えて行くことによって成熟したのかもしれない。
ここには愛がある……..。
「2015/4/12 菅原由美」
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