「室蘭の移り変わり」室蘭市史編集室より

近藤重蔵、絵鞆で越年(おつねん)

 寛政四年(一七九三)ロシア船エカテリナ号(ラックスマン)の根室来航(翌四年箱館入港の途中、絵鞆に入港したといわれる)とプロビデンス号の絵鞆来航よって、幕府は、北辺警備の重要性をさとり、蝦夷地経営に乗り出すため、寛政十年(一七九八)大規模な調査隊を蝦夷地に派遣した。
 一行は勘定組頭松山惣右衛門、勘定太田十右衛門、支配勘定近藤重蔵、勘定吟味方改役並水越源兵衛、大島栄次郎、その他総勢百八十余人の多気にのぼり、五月に福山に到着、蝦夷地をくまなく調査して十一月半ばに江戸へ帰った。
 一行のうち近藤重蔵は、単独で千島、択捉にまで渡り、調査を行っての帰り、シコツ、鵡川まで足を伸ばした後、十月二十七日絵鞆に入り、そのまま絵鞆で年を越した。
 絵鞆で越年した重蔵の様子は分かっていないが、従者の木村謙次(俗称下野源助)の『酔古日札』によると、重蔵は煎海鼠(いりこ)を三十ほど煮て一度に食べたが、なお物足りぬ顔つきだったと、その健啖(たん)ぶりを語っている。
 重蔵は、一月八日に薄に移り、いったん江戸へ帰ったあとまた蝦夷入りをした。
 江戸に帰った久蔵らは”松前藩に北辺を守る能力がない”と報告したため、重臣らが評議を重ねたすえ蝦夷地の経営は幕府みずから行うことにきめ、同十一年、蝦夷地を直轄することになった。