鉄の街と音楽 について知っていることをぜひ教えてください

 

鉄の街と音楽

 

音楽はいつも、どんな心にも優しい。

癒してくれる場合もあれば、奮い立たせてもくれた。

そして素晴らしき出会いを与え、人の輪を作る。

室蘭の音楽は、良港を持つ工業都市だからこそ育まれた文化とも言える気がしている。

人の流れを作り、受け入れ、育てる街….。

 

「室蘭の音楽の歴史」

 

室蘭の音楽文化を語るには、そのルーツはあまりにも遠く、私の想像ではあるが、約二百年前、室蘭港に英国軍艦プロヴィデンス号が入港した時に、何らかの西洋音楽の香りが漂い、港町特有の庶民芸能があり、メロディーがあったのではないかと思われる。(きらん室蘭入門書より引用)

 

きらん室蘭入門書によると、先に述べたいわば西洋音楽の影響を強く受けた港町特有の音楽が時代を経て、正規に室蘭で西洋音楽として発祥したと思われる時期は、1939年(昭和14年)頃と記録されており、その活動は室蘭市内の一部の愛好家と、日鉄、日鋼のブラスバンド、鶴ケ崎、天沢、成徳、北辰などの高等小学校のラッパ鼓隊の小編成のバンドであったようだ。それは今から約77年前ということであるから、歴史的な時間と比較すればまだまだ記憶に新しい出来事と捉えられる気もする。では、プロヴィデンス号の入港(1796年)から、西洋音楽の発祥までの約140年余りの間、室蘭ではどのような音楽が取り入れられてきたのだろうか。

勿論、プロヴィデンス号の入港以前から永く歌い継がれてきた「ウポポ」「ユカラ」が聞こえてもいただろう。

また、もう一つの答えは、日本古来の音楽である和楽の芽生えと考えられそうだ。

 

和楽とは、琴を主奏楽器とし、さらに三弦(三味線)、尺八を加えた三つの楽器により奏でられる音楽。国内では室町時代末期にその源流があり、江戸時代に広がりを見せる。明治末期に取り入れられた室蘭は、道内でも和楽の歴史は古いと言われている。

 

 和楽がやって来た

和楽が室蘭にもたらされたのは、日本製鋼所室蘭製作所の成立(1908年明治41年)が契機だったとされ、同製作所の設立に伴い、関西から多数の技術者が入植しており、その家族やもともとの室蘭在住者が求門者として、当時室蘭和楽の草分けとされていた山田流から教授されたと記されている。当時、三曲の流派は多数存在しており、各流派によってその流儀は異なるものの、三曲全体の普及と発展を図ろうと協会の設立に向けて思いを一つにして動き始めたのが1950年代。現代、室蘭三曲協会は年二回の研究会、毎年秋に行われる室蘭市民文化祭での演奏会、中央で活躍する各流派の大家を招いて一般市民向けの鑑賞会が実施されてもいる。特に着目したいのが、小中学校での授業で日本古来の音楽を学ぶという機会を子供たちに向けて学校と協会が共に作りだしているという点で、西洋に優れたものを認めると同じに、日本の素晴らしい伝統を五感で得られる貴重な経験をどの子供にも平等に設けられていることが胸に残った。

 

 

奏で集う、西洋音楽の発祥

時を追って、発祥したとされる西洋音楽もまた1941年頃より、本教寺(室蘭市常磐町)で毎週土曜日、レコードコンサートが開催され30~40人の音楽愛好家が集ったのが、室蘭市の公開コンサートの始まりといわれているようだ。それに伴って、室蘭混声合唱団が発足され、1943年、洋楽音楽界の発展と育成を目的として団体設立を計画し、室蘭混声合唱団を発展的に室蘭音楽協会と改称し、合唱部、器楽部、レコードコンサート部、学校音楽部が設けられた。この活動が、現代の原型となっているのだろう。

 

工業と文化の繋がり

この街と音楽の結びつきを調べて行くうちに、室蘭の工業は鉄鋼を中心としたもの作づくり、産業の発展にとどまらず、人の流れを作り、室蘭の文化の育成にも大きな影響力を与えてきたという点でもあった。情報の入り口が港に制限されていない現代でも尚、船を通じて人とともに運ばれてきたものは、ここで生き続けているのだと感じる。

 

 

今の子供たちが大人になった未来の室蘭、どんなメロディーが奏でられているのだろう。考えるだけで、胸が高鳴って止まない。

 

「2016/5/7 菅原由美」