火山の街、近代のアイヌの経済的成功の跡が残る街、海の霧が旨い牧草を育てる街、登別

 

質の高い酪農と美味い乳。その乳を集めた旨いチーズ

登別に文学や学問の好きな友人を案内するとき、北海道の中でも、国策に頼らず自立した酪農家が、夏の海霧で旨く育つ牧草畑とその乳を集めたうまいチーズを案内する。

海岸の平地から、クッタラ火山の噴火によりできた火山灰の台地の上に移動する。海からの霧の影響を受け、強い紫外線の当たらない冷涼な夏、室蘭、登別という消費地を持ち、酪農が栄えた登別。政府の農業政策の中で加護を受けずに、生き延びた芯のある酪農地帯。ここに、「この牧草は旨い。いいチーズができる」と札内小学校の跡を工場にした登別酪農館ができる。一行はここで、明日のランチのチーズを仕入れた。

 

幌別や登別のアイヌたちは自らの経済力で学校を作りアルファベットでアイヌ語を教えた

アイヌの物語が日本語で記述された。

知里真志保を排出した知里(ちり)家と幌別の金成(かんなり)家は、深い縁戚関係があり、ともに、この地域の経済コングロマリットを作っていた。その財は明治中期の旧土人保護法以降、手足をもがれるように急速に滅びてゆく。

金成家を中心に幌別のアイヌたちが自主的に作った学校がイギリス国教会から派遣されたバチェラーの影響も受けながら運営された。このことが多くの文字を残すことになる。一時期、幌別のアイヌたちの子はすべてが自らのアイヌ語をアルファベットで正確な音を記述し、手紙でやりとりのできる状態にあった。英語、漢文、日本語のすべてを操るものもいた。

金成家から知里家に嫁いだノアカンテは知里幸恵、知里真志保兄弟の母である。ノアカンテの妹、イメカヌは日本名を金成マツという。経済力を失った知里家はキリスト教の布教の手伝いでわずかな収入のあったイメカヌのとイメカヌの身の回りの世話をしていた彼女の母、モナシノウクの許へ幸恵を幼女して送り出す。イメカヌは子供の頃、脚の自由を失っていた。幸恵は年老いてゆくノアカンテとイメカヌの世話をしながら、ノアカンテのユカラを深く胸に刻んでいた。金田一は幸恵を見出し、東京帝国大学の膝下、本郷の自宅に招いた。幸恵はノアカンテ、イメカヌから学んだユカラの中かから、幾つかを丁寧に日本語に翻訳した。

「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.」。知里幸恵はアイヌ神謡集の冒頭で、アイヌの暮らした北海道の幸せを語った。その上で「世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.」と決して滅びないアイヌの文化と幸恵の思想を力強く文字に固めている。

幸恵は「いつか現れる強いもの」の糧になる神謡を文字として残す。「アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.」と19歳の幸恵が未来を輝かせて一生を終えた。

この書の最初の神謡はフクロウの神が、自分のしたことを謡うもの。没落しても誇りを失わない家のアイヌの子が放つ矢を受け止めるフクロウの神。真っ逆さまに落ちて、その肉体を彼の家に届けさせる。家人たちの感謝の祈りを受けたフクロウの神はその夜、肉体を離れて家中を飛び回り、この家を再び栄えさせ、また周囲からの尊敬を集める家族とした。そして、アイヌがフクロウの神を大切してくれるので、自分はその家族、村を大切に守り続けるという話だ。アイヌ自身が自らを信じて強くなれば、差別を受けないという非常に強い意志を感じ取ることができる。

その後、弟の真志保は、彼の方法でアイヌ文化の書き記す学問の中心を担う。

幸恵の死後、不自由な脚をおして、東京の金田一の自宅で自らの幼女の仕事を知ったイメカヌに決意が生まれた。彼女は「自分にできる仕事をする」と、幸恵の遺志を継いで、モナシノウクから聴き続けた知りうる限りのユカラを大学ノートに書き記した。子供のころ幌別で金成家を中心に経済的に自立したアイヌたちが建てた学校で学んだローマ字だった。この肉筆は未だに全てが日本語に訳しきられていない。彼女の日本名をとって「金成マツノート」と呼ばれている。幸恵、真志保、そして、イメカヌの存在がなければ、アイヌのユカラの世界、また、未来を見抜く力や近代社会に適応していたその経済的な能力、文化的な力が今に伝わることがなかったのかもしれない。

フクロウの神が謡うユカラの中から名前を取り「知里幸恵銀のしずく記念館」が有志の手で建てられている。この日は冬季の休館期間、登別の案内人は躊躇なく運営する皆さんのドアを叩いて、旅人を招きいれた。一行は、まず、金成家と知里家の家系図を観る。この二門がお互いに関係し支え合っていたことを知った。