大島町郷土資料館に、柴山孝一先生を尋ねた。先生は、昭和36年に、教員として赴任されて以来、50年を過ぎる大島滞在。この郷土資料館は柴山先生のような知識人の活動によって支えられている。

柴山先生は「野増(のまし)のね、人情が、故郷の墨田区の下町付き合いと同じで、居心地がよかったんだよね」という。「いや、僕が好きなことばっかりしゃべっちゃ、あなたは楽しめないから、何を勉強したいか教えてくださいね」という優しいお爺ちゃん。

 

岡田港と大島空港の間の道を都道から離れて迷いながら歩いていたら、 本当に空が見えないヤブツバキのトンネル。下は今朝降った雨でどろどろ。川のように水がながれた跡。そこで、道から外れたところに、沖縄の亀甲墓のような小さな建造物をみつけた。まさか、お墓ではないよなとドキドキしながら、「あれ、そうか、これは炭焼き釜ではないか」と。 

 


ヤブツバキの森にのこる炭焼き釜。舗装された道と道が近くを通るのに、地図上では繋げられていない。不自然さを覚えて、現地に行って観ると地図にはない椿のトンネルの道。その傍らに炭焼き釜があった。

 

炭焼き釜を見つけて驚いたとお伝えすると、柴山先生は話を始めてくださった。
江戸の中期から、島内の村長(むらおさ)が幕府の法度を犯して伊豆から職人を招き、炭焼きの技術を村人に学ばせたと。当時、船を保つ村と、船を持つこと自体を禁じられた村があった。今の岡田港と元町港の村が、船を保つ「海かたの村」。その他の集落が「山かたの村」だった。海かたの村は、比較すると裕福。魚を捕ることも、交易をすることも出来た。山かたの村は海の水を汲んで、火を焚いて煮詰めて塩をとるのが生業。飢饉の年には、塩で穀物を交換することも出来ずに餓死者が出るのをただ待たなければならいという、悲しい思いをしていたと。

 

そんな中で、山かたの村長達は、胸をいためながら工夫を凝らしていたという。

その一つが、椿を使った炭焼きだったのだと。椿の枝は堅く、良質の炭になるという。燃やすだけでなく、漆器を磨く研炭としても珍重されたという。幕府から視察にくる役人は年に一度だから、役人が来ても気付かない場所に、炭焼釜を埋めておいて、煙を立てなければいいと。幕府の役人が調べるのは放し飼いだった馬や牛の頭の数。戦が起きたとき、牛馬は乗り物であり、武具、馬具に使う材料であったためだと。炭焼きの伝統は時代を下っても、大島の経済の一つになっていたという。戦後、山形の人たちが冬にやることがないために、集団で大島にやってきて炭を焼いた時期があったと。だから、大島では山形県人会が今でも一番大きな県人会なのだという。

 

地震と津波で崖が崩れ、天然の良港になったと聴く波浮港。そこには、浅瀬を掘り、港に仕上げた人々努力があったのだと。

 

海かたの村、山かたの村の関係の変化に波浮の港が大きなきっかけを与えていたという。もともと、水蒸気爆発でできた火口。円形の火口湖が海辺にあった波浮池。これが、元禄の大地震と大津波で海側の崖壁が崩れた。それで、海の水が、この丸い穴に入り込んだのだけど、大きな船が入られるほどの港にはならなかった。播州から来た技術者達が、入り口を掘り下げ、港として完成をさせる。それを幕府の役人が誉め称え、波浮港の周りの土地を彼に与え、開村をさせた。その時、魚を捕る船を持つことを願い出て、長く二村にとどめられた海かたの村に加えて波浮は船を保って栄えることになったそうだ。

 

波浮の人たちは子どもに読み書き算盤を教え、漁師も帳簿を付けることを是としていたという。周辺の村長は頭を下げて、波浮に学びに来たという。波浮側も分け隔てなく村外の人々にも読み書きを教えたと。「地域の経済の構造を作り替える努力をして、村人の命を救うのだと、訴え出れば必ずお上も分かってくれる」と確信した村長の一人が、命がけで代官に訴える。訴状をしたためなければ直訴はできないので、文字を必死で覚えたのだと。当時の身分制度を飛び越える直訴は御法度破り。本来は訴えた時点で命を失う可能性が高かった。都合17年間、投獄されたり赦免されたりしながら、諦めずにいた村長の一人が、とうとう籠訴(かごそ)に至った。幕府の老中の旅を狙って、直接老中の籠に訴状を届けるというもので、名主を飛び越えて代官に訴える程度とは訳が違う。死罪は必死だ。万が一にも老中が訴状に眼を通してくれればということだったのだろうと。

 

結果、老中は訴状を読み、義憤に感じ、この村長を裁かず、山かたの一村に船を持たせたそうだ。海に魚が居るのに村人から餓死者を出していた村長の書いた文書には強い思いが刻まれていたのだろうと、柴山先生はいう。歴史のなかで、心を届ける為に文字を学んだ村長が讃えられている。さらに、山かた一村の改革が、大島全村の改革に繋がったのだという。この一件がなければ、明治まで海かたと山かたが別れていて、近代を迎えるまで、集落間の上下関係が維持され、対立も維持されたのかもしれないという。

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