札幌の中心部から国道36号線を千歳方面に30~40分走ると、見落としがちだが、「島松沢」の看板がある。右折で坂を下りると、国指定史跡、1873年(明治6年)に設置された「旧島松駅逓所」がある。駅逓は、馬や馬方をおき、開拓当時の宿泊と運送になう公共的な施設だった。


 島松の駅逓をまかされたのは、中山久蔵。明治6年、道南に限られていた米の栽培を石狩平野にもたらしたのは、この久蔵とされる。彼は、大野町で寒さに強 いとされた品種を持ち帰り、栽培法を研究。種籾(たねもみ)と栽培技術を、周辺の開拓民たちに無償で提供したという。

 

北海道の稲刈りは9月だ。南国のように、台風を避けて、8月に稲刈りをしてしまったり、早く出荷して、新米市場をにぎわすことはできない。水がゆるんで から田植え、夏の暑さで花を咲かせ、ぎりぎりの収穫をおえると、直ぐに霜が降り、10月には紅葉、初雪の声を聞く。

 クラーク博士が札幌を去る日、最後に立ち寄って、「Boys, be ambitious (少年よ大志をいだけ)」と言った場所として語られているが、そこには、北海道の稲作の歴史と、北広島市が植え続ける「赤毛」の田んぼがある。1991年 から毎年、5月下旬に近くの北広島市立西部小学校の四年生たちが田植えをする。9月中旬の稲刈りの前なら、真っ赤な穂の小さな田んぼを見ることが必ずでき るだろう。

(2006年9月1日・杉山幹夫記)

 

遅い花を咲かせ軒が白いままの穂がある。生育のばらつきは遺伝情報が多いことの表れなのか


一方ですでに実って頭を垂れているのに、まだ花が咲いて授粉する瞬間が見られる8月の下旬。成長のばらつきがこの品種の強さなのか。文字通り赤い毛の「赤毛」。この穂が、北海道の水稲栽培の歴史を変えた。実が熟する時、小麦と見まごうような長い芒(ノギ)が赤く変わる。他の品種全てがダメだった年に、道南大野町で、この穂が生き残ったという
 

赤毛がその後の石狩平野及び北海道でのコメの遺伝子の祖となり、安定した稲作に貢献した。その久蔵の前にも何人もの稲作の挑戦があった。

札幌市北区のサイトに昭和50年当時の広報さっぽろの転載がある。ここでは、札幌で最も早く稲作に成功した早山清太郎にかんする記述がある。
http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/004.html
 

嘉永5年(1852)早山清太郎が郷里の福島県西白河郡から北海道に渡る。
安政6年(1859)篠路に入地。
「この地方での産米に感激した函館奉行は、清太郎に賞金を与え」

開拓判官・島義勇は「早山は……わが北海の主人なり」といった。

清太郎は島義勇を琴似川の上流部のコタンベッに案内し、札幌神社(後の北海道神宮)の場所を決め、札幌扇状地の扇端、現在の道庁の湧水に暮らすコツネイのコタン、本村といわれた大友亀太郎の御手作場、その北に広がる湿原、そして、当時100戸の街があった石狩河口の港を見せた。

 

旧島松駅遁所

営業時間 10:00~17:00
開設期間 4月28日~11月4日まで
定休日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
祝日の翌日(ゴールデンウィークは除く)
料金 大人200円、子ども100円
住所 北広島市島松1-1
電話 011-377-5412