開拓と札幌農学校 について知っていることをぜひ教えてください

 

農耕と人材育成

 

シベリア進出を図っていたロシアがオホーツク海に度々現れていることを懸念していた明治新政府は、薩摩藩の実力者であった黒田清隆(後の第2代内閣総理大臣)を開拓次官に据えた。黒田は、江戸時代より図られては失敗してきた蝦夷地開拓の問題解決として、寒冷地であることで事業が思うように進まないということは言うまでもなく、狩猟が発達している分、農耕という手段が定着していなかった点を重く捉えていたと考えられる。また、人の手が入っていない未開発な土地を、古くから栄えた日本の他の地域(内地)のように創り上げる為には、優れた人材を育てるという事が最優先事項だと捉えられていたように推測できるのだ。

何故ならば、黒田清隆は慶応元年(1865年)既に「海軍修業奨励に関する建言書」を発信し、人材教育のための海外留学を薦めていた人物だからである。その意を受けて、幕府の目を盗み密航留学した人物の中に、現在の同志社大学の前身の大学を創設した新島襄もいた。

 

 札幌農学校誕生とエドウィン・ダン

蝦夷地開拓を開始するにあたり、黒田は綿密な10年計画を立てた。成功に導くためには自然環境が類似し、開拓について豊富な経験を持つアメリカからの指導が近道であると考え、当時の農務長官であるケプロンに顧問を、優秀な人材の育成の為に、さきの新島襄が留学によりアメリカアマースト大学での恩師であり、当時マサチューセッツ農科大学学長であったウィリアム・スミス・クラークを教頭に迎えることとなる。1875(明治8)年、こうして現在の北海道大学の前身である札幌農学校が産声を上げた。

 

札幌農学校の一期、二期生には、日本初の農学博士の一人と言われる佐藤昌介、旧5000円札でも知られる人、武士道を書き、国際平和のために尽力した新渡戸稲造、日本初の公害事件、足尾銅山鉱毒問題への取り組みや、日露戦争の時には非戦論を唱えたキリスト教指導者である内村鑑三も巣立った。

 

優秀な人材育成には強い手ごたえがあったものの、農耕の成果は満足を得るものではなく、後に農業指導者エドウィン・ダン1873(明治6)年の新冠牧場での尽力が現在の北海道の農業の基盤となっている。彼は、ケプロンの紹介でアメリカより92頭の牛と、100頭の羊、農耕具と共に訪れ、東北士族団の弟子や、開拓使官史など約30名に農畜産の技術を指導した。

 

 人材育成が鍵

開拓の歴史をほんのさわりであるが知ることで、初めてこの言葉の意味が理解出来た気がした。何を成すにも、人が大事だということだ。

「少年よ。大志を抱け」人づくりが成功の鍵となる。

 

「あかれんが」及びリンク先のホームページを参考にさせていただきました。

「2017年10月8日 環」