ローカルサミットin高野山 藻谷浩介×髙橋寛治 について知っていることをぜひ教えてください

2014.11.02 高野山大学で開かれたローカルサミット2日目の

14:00~14:45:対談「高野山の過去、現在から未来を観る」
司会:飛鷹全法(実行委員会事務局長)


対談者:藻谷浩介(日本総合研究所調査部主席研究員)、高橋寛治(高野町元副町長)

の記録です)

第7回ローカルサミット活動報告

 

「ローカルサミットin高野山」-1

  藻谷浩介×髙橋寛治

(2014.11.02 高野山大学で開かれたフオーラムです)

 

<開会>

司会 藻谷様には急きょ来ていただきました。

 高橋寛治さんは前々町長のときの副町長として高野山にいらっしゃいました。もともとは、長野県の飯田市のまちづくりの専門家でいらっしゃいましたし、今は、飯田市周辺地区の村づくりのために村を通して日本の再生を熱く語り、それを実践されるとともに高野山大学の客員教授でもいらっしゃいます。

 それでは、お二人、よろしくお願いいたします。

(拍手)

 

<はじめに>

藻谷 皆様、どうもお疲れさまです。藻谷でございます。

 今日は突然伺いまして申し訳ありません。昨日は山形と秋田の山奥をさまよっていましたので、今日、ようやくこちらに来ることができました。同様に明日も早朝から山梨の山奥に入らなければなりませんので、このあと失礼するようになりますけれども、今日は大変楽しみにしてまいりました。

 今日は、知る人ぞ知る髙橋寛治さんと対談させていただけるという設定がありまして、髙橋さんのお話をしっかり聞ける貴重な機会ですので、私も大変楽しみにしてまいりました。どうぞよろしくお願いいたします。

髙橋 ありがとうございます。よろしくお願いいたします。

 ただ今ご紹介いただきましたように、私は、長野県飯田市役所の職員でございました。公務員時代の仕事は中心市街地の再生を担当しておりまして、特にゼネコンとデベロッパーを入れない都市開発を連鎖するということが得意技でございます。

 定年退職後、公務員はもういやだと思っていましたら、突然行ったこともなく、誰も知らない高野町の町長さんからオファーをいただきました。

 私は、お断りし続けていたのですが、一度会ってみましょうということになりまして、難波へ行きました。町長さんと話し込んでいるうちに遅くなってしまって帰れなくなりましたときに、「私の家は宿坊なので泊まっていきなさい」と言われるままに高野山へ来ましたが、その美しさに感動して、それから5年9カ月間、高野町の副町長をさせていただきました。

 現在は長野県に戻りまして、600人以下の4つの集落の再生を担当しています。私は、21世紀は絶対に山村の時代だと考えていまして、その逆に一番大きな課題は東京だと思っています。そのような中で何を考えるのかが大事な時代ではないかと思いながら、今日はお伺いしましたので、よろしくお願いいたします。

藻谷 私は、あちこちをふらふら歩いて、登壇・出演・面談、そして、これはあまりしないのですけれども、会食が年間1,200件になりました。数が多ければいいというものではありませんが、年間1,200件という数字もばかにはできませんで、約3週間で30都道府県ほど通るというような、あまり意味がわからない生活をしております。

 生意気なのですが、私には師と仰ぐ人はいません。私は、自分がオリジナルで、すべてのいろいろな人に教えられて今までやってきたと言っているのですけれども、実は、この人は先生という方が1人か2人います。

 明らかに私の師匠であるというその1人が髙橋さんなのです。私が社会人のかけだしのころに髙橋さんとお会いしまして、お話を聞いて、そのときの一語一句が私の胸に刺さりました。当時は飯田市役所の部長さんでいらしたと思うのですけれども、とんでもない人がいると、これは、すごいことだと衝撃を受けました。髙橋さんは当時のことを覚えていらっしゃいますか。

 

<地方都市の中心市街地の再生>

髙橋 当時は、中心市街地の再生が日本中の課題でした。

 私は、このように思っています。公務員も関係する方もどなたもそうですが、真っ白い気持ちで現場へ入って行くということです。私は、あらゆることに素人です。素人というのは真っ白なのです。そこでもっていろいろなことを考えて、新しい仕組みをクリエイトしていくのです。

 そのような中で藻谷さんとお会いしました。先ほども言いましたように、当時の地方10万都市ではシャッター街になるのが当たり前な時代という中で、なぜ飯田が注目され、今日現在までに第2、第3の飯田が出てこないのか、それはなぜかということを思いながら、いろいろな仕事に取り組んできたわけです。

藻谷 ありがとうございます。

 髙橋さんは運動論的な方です。実際は、一緒に行ってしなければわからないので、少しお話を聞いただけではわからないと思いますが、今の私を聞かれている皆様にも、おそらく、なるほどと思っていただけていると思いますが、髙橋さんのお話を聞くだけで、衝撃的なことを当時はおっしゃっていたわけです。

 30年ほど前に髙橋さんがおっしゃっていたお話はこういうものでした。

 このままいけば高齢化が襲ってきて、若い人がどんどんいなくなり、年寄りだけが取り残される状況が日本中で起きています。飯田でも起きていきます。そのようなときに、今の車社会に頼って郊外へとみんなが病院から何から拡散していっているのが飯田市です。飯田市は高野山と同じように町が丘の上にあり、町へ行くにも山を登らなければ行くことはできず、登山みたいなものです。高校に通うにも登山をするような町で、これでは、もうやっていられないし、昔は、水害が多かったので、ふもとに下りて移り住んでしまいました。

 この方法は、一見便利に見えますけれども、高齢化してしまいますと、町はもたないのです。しかし、町がもたないことは計算上わかっていますので、実際に高齢化したときに、生き残る可能性が少しでもあるようにするために、今、飯田をつくり変えないといけないのですと髙橋さんはおっしゃっていました。それが、高齢化についてのお話を私が真面目聞くことができた最初の機会です。

 

「ローカルサミットin高野山」-2

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<車道を勝手に歩行者が歩いてよしという構造>

髙橋 結局、町には、1つの原則があります。それは「モータリゼーションにさらされた都市は死滅する」です。だから、飯田市の市街地で一番中心にあったバイパスを公園に変えたのです。道路にヒエラルキーをつくるのです。全体計画としては中心市街地へも内環状線をひき、そこは通過交通になります。外へ向かって行く車は、そちらを行けばいいけれども、一番中心のところが歩けないのは変ではないですか。だから、一番町の中心にあった有名なりんご並木という片側2車線の4車線道路を、もう一回考えてみる。

そのときに、私が考えたのではなくて、200人の市民の方が2年間かけてワークショップに取り組んで答えを出してくださいました。それを拾い上げたら、それが道路構造令に違反していたのです。

そのときに公務員としてどうしますか。これは無理です、法律としてできませんと言うのか、いや、これは普遍性があって、飯田市のエゴではないなと思ったら、その道路を変えてしまう、そのようなことを考えながら仕事をやってきました。

藻谷 飯田の話は入口ですけれども、高野山と同じ問題というか、日本中の共通の問題があるので、ちょっとだけ紹介させてください。長野県の飯田市は台地の上にあります。日本では、群馬県の沼田市と長野県の飯田市の2つしかない構造です。この丘の上の河岸段丘の上に城下町があり、要塞をつくりやすいように崖があります。ちなみに、この下から標高差が約100メートルあります。この山を見上げてよく見ると、山の上にビルがいっぱい建っているのです。スペインにもそういうところがありますけれども、そういう非常に特殊な町であります。

 しかし、要塞としては素晴らしいのですが、現代社会にするには、鉄道もぐるりと回って上の台地に上がるわけですけれども、この電車も機能しないし、みんな、外側にバイパスをつくって、バイパス沿いに普通にイオンができて、アピタやサティができて、下で普通の車社会の―埼玉県みたいな―暮らしをするように、だんだんなっていきました。

そのときに、この丘の上の暮らしをどう守るのかということをやられて、ここにあったりんご並木は、車も通ろうと思えば通れるので車も通るのですけれども、基本的に歩行者が優先になってしまいます。だけど、歩道をあえてつくらないのです。要するに、車道を勝手に歩行者が歩いてよしという構造にしました。当時の法律違反です。これを地方発で独自にやってしまった張本人です。しかも、そのあと、国が結局これをまねするのです。

 

<既存建築物を残す再開発>

髙橋 結局、各地がまねをして、今やってらっしゃいます。ですから、最初の一歩というのは、なかなかハードルが高いわけです。けれども飯田市というのは、先ほど言いましたように、普遍性があってエゴがないのなら、法律への挑戦を許しました。ですから、次に取り組んだ再開発の中でも、既存建築物を残す再開発を実現しました。

藻谷 最初に竣工した再開発ビルのりんご庁舎ですけれども、この中に見事に蔵が残っています。

髙橋 そのようなことを考えられる都市としての素地が、ずっとあったのだと思っています。

藻谷 飯田市は人口10万人ですけれども、このとおり、上の市街地は非常に大きい市街地なのですが、空洞化して、新規の建築物がありません。マンションの1軒も民間業者が建てたことがないという、-人口10万人ですと普通マンションくらい建つものなのですが―、90年代になろうとしても、とにかくマンションすら建てる人がいないというくらい死んでいる町でした。私が最初に通っていたころは、居酒屋の明かりがほとんどついていませんでした。そのあと、15年くらい前ですか、若い人が集う居酒屋が町の真ん中にできまして、びっくりしました。

髙橋 はい、できました。たくさん若い人が今日もいると思います。

藻谷 この町の真ん中に若者がいる居酒屋があるぞとびっくりしました。ちょっと飯田に失礼ですけれども、それくらいのすごい大成功をするわけです。マンションすら建たないところに、市というか、市が裏で協力するのですが、民間融資で設立した会社が再開発をしていくわけです。これがゼネコンを使わないのです。

髙橋 そういうことです。結局は、地方がゼネコンに頼った再開発になると、市役所の職員は、国から補助金をもらってくることが仕事だと思うのです。そうではなくて、住民の皆様の気持ちをくみ取って、それを具現化していくことが仕事なのです。従って、住民の方といくつかの約束事をしましたが、私たちが頭で考えてわかることをやってくれというのが第1条にありました。ですから、住民の方と一緒になって、町の将来を考えてきたということが足跡です。

 

「ローカルサミットin高野山」-3

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<第2、第3の再開発が連鎖>

藻谷 第一の再開発が1個で終わらず、それをうまく成功させることにより、そこで5人の雇用を新しく生みだし、プロを5人雇うことができて、そして、第2、第3の再開発が連鎖していくという、これが、今、髙橋さんがおっしゃっていた、全国どこでもやっていない飯田市の再開発です。

 ただ、ゼネコンもかんでいませんし、昔を知らない人から見ると、広大に腐った市街地の中に3つ新しい建物があるだけです。その前を知っている人間からしてみると奇跡なのですが、知らない人から見ると、どこがにぎわっているのですかと言われます。昔の人っ子一人いなかったときに比べると、町の中に飲み屋街ができて、若い人がたくさんいて、図書館に高校生がいっぱいいて、素晴らしいものなのですけれども、前を知らずに、あとから来るとよくわかりません。

そういうものをおつくりになられ、かつ、途中で市役所を定年でお辞めになるのですが、あとに続く部隊をきちんと育成されています。

髙橋 おかげさまで、この考え方、思想は、退職してしまうとつながりにくいのですけれども、飯田市の場合は有り難いことに、同じような思想が何十年も続いてきています。同じような思想を今も引き継いで、新しいまちづくりが続いています。

藻谷 特に髙橋さんが後継者として育てた一番手といえば、有名な粂原さんという女性の部長ですが、彼女は、そのあと、がんにもなりながら負けずにやり続けています。

髙橋 まだ現役でやっています。

藻谷 がんから生還されました。だから、まちづくりなんて、下手にやると、足は動かなくなるし、がんにもなるのです。当時から既に足は不自由でいらしたのを、うっかり、私が、よく話がわからないので、足をどうされましたかと言うと、いや、まちづくりやり過ぎたと言われました。皆様も、何となく、おわかりいただけると思うのですが、命を懸けてやっていると、いろいろなところに神経の障害とかが出てくるのです。

 

<高野山での周辺の山村との紡がれた生態系>

藻谷 さて、そのあと、さっきおっしゃったお話で高野町に移っていらっしゃいました。そのときに高野にいらしてからも、私は忘れられない話を聞いたことがあります。そもそも私の高野山のイメージというのは、ややこしい、難しいところだなという、その程度のよくわからないイメージしかありませんでした。本来、こんな家が成り立たないような難しいところです。ところが、髙橋さんに久しぶりにお会いして話を聞いたら、藻谷くん、高野山というのは、この山上の本来あり得ないところに町があって、これを支える周辺の山村集落とのネットワークがあるのだという話でした。

髙橋 高野町のすごさというのは、一番わかりやすいことからいうと、町の中に農地が一筆もないのです。一筆もないということは、修行の場所というのは、必ずその周辺に農作物や薪炭をつくっているところがあって、背負いあげてきたわけです。

ですから、昭和30年代までは、そういう相互の関係が保たれてきました。でも、モータリゼーションによって、どんどん、いろいろなところから物が入るようになってきました。だけれども、先ほど御番雑事(ごばんぞうじ)という話しが出ていましたが、麓から野菜を持ってあげてくるわけです。

 そのように高野山は、今の行政区でいう高野町ではなくて、高野山を中心とした共通した文化圏です。その中でもって、この中心として高野町があるのですから、今、外へ向いている目を、もう1回元に戻して、ここを中心にしながら、この昔からの関係を紡いでいくというストーリーが描ける場所ではないかと思って、お仕事をさせていただきました。

藻谷 「紡ぐ」という言葉は、場所の文化機構の皆様もおっしゃっているのですが、誰が最初に日本で、この言葉をまちづくりに使われ出したのかというと、内山節先生なのかもわかりませんが、髙橋さんも大昔から紡ぐという言葉をお使いになっています。

 そもそも高野山は、弘法大師が、つくるに事欠いてといいますか、修行の場だから、そこはいいのですけれども、当時から今でも標高800メートルの山間の川の最上流にあります。川が皆様、どちらに流れているかお気づきになりましたか。どこが峠で、そもそも高野山に降った雨は、どこに行くか答えられますか。太平洋に行くのか、いや、行くのでしょうけれども・・・、どこから海に出るのでしょうか。ということがよくわからないくらい複雑なところです。真南に流れていくのか、西に行くのか、北に行くのか、東に行くのか、皆様、おかりになるでしょうか。そこに、当時であれば、一番近い田んぼからも、多分、死ぬほど距離が離れていたと思います。そのまま修行して即身成仏する集団であればいいのですが、人間である以上、いかに修行をしても飯を食うわけです。

以降1,200年、町が存続しえたこと自体が、普通に考えるとあり得ないことであります。これは、今、髙橋さんがおっしゃっていた、周辺の山村との紡がれた生態系があるということです。

 

<1,200年続いてきた特殊な構造化されたもの>

髙橋 このごろ、国が変だと思いませんか。山村にだんだん出産可能な女性が少なくなって、東京へ集まるから、限界町村だ、あそこはつぶれるというランクをつくるのです。失礼な話だなと思います。高野町を考えれば、簡単ではないですか。1,200年の間、1,100年は女人禁制ですから、女子はいなかったのです。

藻谷 そもそも女性がいないわけです。

髙橋 でも、町は継続したのです。そのときに、気をつけないと、高野町は特殊だと言ってしまうのです。その人は負けです。各市町村が、自分のところは、これで食べていきます。これで将来とも、子どもが安心してできるという特殊界をつくらないから、有名になろうとか一番になろうではなくて、特殊な地域をどう形成できるかという能力が欠如して、何でも東京に頼るようになっていくのだと思います。

藻谷 高野山は、そもそも明治に女人禁制が解かれるまでは、どこかで生まれた人が登ってきて、死ぬまで修行をしている場所でした。それにもかかわらず、1,200年間、町として存続していました。そして、当然それを支えるお坊さん以外の商人・農民がちゃんと周辺にたくさん住んでいて、極めて特殊な形態で町を継続できていたということなのです。

髙橋 そういうことです。ですから、そういうものを各地域が考えるときに、この町の中にはたくさんの構造化された大事なことがいっぱいあるのです。ほかの町や村へ行ってもできないと言われていることが、ここではたくさんできています。そういう点で、構造化されていて、非常に勉強になる町だと思いました。

藻谷 髙橋さんが今おっしゃっているのは、5年9カ月ここの副町長をされながら、実にいろいろな問題があるところだと思うのですけれども、しかし、その根底にある1,200年続いてきた特殊な構造化されたものをたくさんご発見になられて、それを何とか守るために副町長として尽力されるわけですが、いろいろな理由から、政治は政治なので、行政には限界があります。ですが、その構造化されたものを学ばれて、今度は信州のものすごい山奥で、飯田の近くの本当に限界的な状況にあるところで、同じく特殊な構造をつくられようとしているわけですね。

髙橋 おっしゃるとおりです。例えば、高野町で物を買います。そうすると、全部、配達してくれるのです。ツケにしてくれるのです。

藻谷 確かに、歩いていると店がありません。土産物屋以外の店が何にも見えないのです。

髙橋 そうするとどうなってくるかというと、結局それは知っているということなのです。知っている人でなかったら、ツケで払えるわけがありません。そういう関係を山村でつくることは、大事なことなのです。

藻谷 つまり、高野においては、住んでいる人が全員ツケで物が買えるような関係を築いたのですか。

髙橋 要するに、知っている人、お互いが知り合うということに対して、近代は全部切り捨てたわけです。それに対して、ここは嫌かもしれないけれども、みんなが互いにわかっています。だから、厨房の手が足りないなと言うと、「あそこのおばあちゃんは手が空いていると思うよ」という話が、職安を通さなくても伝わります。そういう社会関係を、もう一回、全国の山村でもつくっていかないと、それは言ってはいけないけれども・・・、まあ、いいですか。

藻谷 言ってください。

 

<国の労働政策だけでは駄目>

髙橋 国の労働政策だけでは駄目だと思っています。

藻谷 国の労働政策では駄目なのですね。高野も、実際のところ、現代人が住んでいるところでありまして、お坊さんがみんな聖人であるはずもなく、生態系がガタガタと崩れていっているようにも見えるのですが、しっかり守れている部分もあります。それは一体どういうことになっているのかという話を、また、信州で同じことをどう紡ぎ直せるのかという話をお聞きしたいと思います。

 今、残念ながら高野は、いろいろなものが壊れていっている最中だと僕は思っていて、人も減り止まらない、なかなか厳しい状況です。ここは今、全国有数の人口減少の町なのです。世界遺産になって以降も、加速するかのごとく人口は減り続けています。いろいろなものが壊れていっている最中だと僕は思うのですが、しかし、あまりにも強く守ってきた力もあるので、どこかで何とかなるかもしれません。

 

「ローカルサミットin高野山」-4

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<旧清内路村では人口が増え始めている>

 藻谷 そこで、今、髙橋さんが移り住んで、てこ入れをしている飯田市の隣りの旧清内路村は、600人しかいない、谷しかない、とんでもない条件不利なところだと思いますが、あそこではついに人口が増え始めているとお聞きしました。

髙橋 おかげさまで去年、清内路地区とのお付き合いが3年経過し、4年目になりまして、600人のところで、12名人口が増えました。

藻谷 それも、本当に500人くらいしかいなくなったので、村をやっていられないよということで、一も二もなく、阿智村に合併しました。その辺にある村に村が合併したのです。合併する際に、村でも何でもいいから、とにかく隣の村のほうがよほどましだから、うちはもうやめますよという形で合併してしまったところです。それ以降も、ずっと衰退していたのですが、今、ついに12人の人口が増えました。

髙橋 結局、一年間で12人というのは多過ぎるのです。

藻谷 そんなに増えてはいけないのですか。

髙橋 増え方が多過ぎるのです。今年は落ちるかもしれませんが、来年は間違いなく、また人口が増加するというコンセンサスができています。

 

<コンビニがほしい>

藻谷 どういう仕組みをつくって紡ぎ直すと、それが構造化されるのかという話を、皆様にわかりやすいように聞いていきたいと思います。

 今までのところまでを、先ほどとつなげますと、高野山というのは、麓の人たちの絶大な信仰をもとに、登ってくる人たちによって支えられていて、昭和9年当時、既に電気がひかれ、ケーブルカーがひかれ、山上には、あまり今と変わらないというか、今以上のにぎわいがありました。誰かが物資を持ってきて、それを支えていました。

その一端は周辺の山村が支えていました。杖ヶ藪という集落は、ここから谷を越え、峠を越えて、川を下っていった下流に当たるところです。ものすごい山村で、半日しか陽が当たりません。そういうところで、いろいろな人が、ここでの土産物をつくって現金収入を得つつ、農産物をつくって支えるという構造が、30年前は、まだ残っていました。

 さっき、一言、髙橋さんが象徴的だと言っていました。実は、高野山の人にはほしいものがあるのですとは何ですか。

髙橋 言っていいですか。やはり利便性はほしいのです。ヤマダ電機があったらいいなというお気持ちがどこかにあるのです。高野山にあるお店というのは、必ず本山のいろいろな祀りごとに対して、出仕をしなければ駄目です。ですから、ヤマダ電機が来ても困るのです。だけど、やはり、ほしいなという気持ちがどこかにあるのです。そういうものと、どう峻別するか、違うということを出していくかという点を現状の高野町の皆様が、どうお考えになっているかということを検証していただければ有り難いです。

藻谷 ローカルサミットを高野山でやると聞いたときに、私はどういうご関係か知らなくて、それまで全くノーチェックだったものですから、どうされるのかなと思いました。

 ここは日本のブータンと言ってもいいと思うのです。ブータンは幸せだと言うけれども、僕は、あの人たちは絶対にコンビニがほしいと思います。だから、一旦、そういうことをくぐり抜けないと、本当のブータンにはならないとずっと当時から思っていましたし、今でも思っています。果たして、どうなのでしょうか・・・。

髙橋 高野山は、わかりやすい例でいうと、世界遺産でありながら、高野山に世界遺産という標識はありません。それは当時、世界遺産の直後になられた後藤町長が、「世界遺産というのは、私たちが生活する姿です」と言ったのです。ですから、朝、子どもたちが辻のお堂のところでもってお参りをして小学校へ出ていくとか、本山の前を通れば、必ず手を合わすとか、そういう私たちの生活の総体が世界遺産なのだから、「世界遺産です」なんていう表示を出すことがおかしいと言いました。表に出ているお店、裏側のお店とかに、たくさんのルールがあって、この町が運営されているということが大切です。町の中で高野位牌を作っている福形さんが、古い技術と新しい技術という話をしますが、古いということを常に意識しながら、そういうものを常に続けてやっていく必要があるのではないかと思っています。

藻谷 特殊な場所ですけれども、特殊なところに住んで、生まれ育ってきた人たちが、常に一般に憧れるわけです。

すごく失礼なのですけれども、大学もあるくらいの町ですが、若い人が食べているものが、本来、高野山にあるはずのない寿司やカップラーメンで、飲むものは、コカコーラボトリングがつくった綾鷹という綾部のお茶で、非常に特殊ではないものを食べていました。こういうことを、ごく普通に何とも思わずに、みんな、やってしまうのですね。

髙橋 そうです。何となく、普通に、例えば、どこかが5%安ければ飛んでいくとか、ガソリンが1円安いとか、そのようなものと、どのように峻別した生活というものを意識化する人たちを広げていくかです。その輪を広げながら、だんだん、それが太くならない限り、普通の町に近づくのだと思っています。

 

<「高野人は、常に寺の一員であるという意識がなければ駄目だ」>

藻谷 高野山の独特の問題ではあるのですけれども、皆様、高野に来ているので、改めて語りにくいところですが寺と在家、この話というのは、非常に大きな問題です。

髙橋 僕は書店を営む小堀さんの話を聞いて感動したのです。やはり「高野人は、常に寺の一員であるという意識がなければ駄目だ」ということをお話になっていました。

僕は外から来たものですから、やはり、在家と僧侶という感じのヒエラルキーがあるのではないかなという気持ちで過ごしていました。小堀さんのように思えた瞬間に、ガラッと変わります。その瞬間が大事であって、高野の人が全員そのようになれば、その課題は超越できるのではないかと思いました。

藻谷 在家と僧侶の問題というのは、皆様、今までの話には出てきましたでしょうか。すなわち、もともと女人禁制のころは、もっとはっきりしていたわけです。僧侶は、子孫が残せないわけですから、ここで、何らかの理由で山に登ってきて、修行をして、死んでいく僧侶、それを支える生態系、経済をつくっている在家の人たち、全く別種の人間として存在していたわけです。それが、今は混ざっていますけれども、お寺の僧侶である人と、横でそれにくっついて商売している人の間に、いろいろなこと、利害の対立、思いの対立があります。

 あと、寺あっての在家でしょうと、それはあるのではないですか。よく考えてみると、在家の人がいないと、寺の人は、本来は飯が食えないはずです。というのは、在家のサービスがなければ、お参りの人も来ないわけです。本来、お互いに、持ちつ持たれつですけれども、常に寺があっての門前町であり、在家であるわけですから、寺のほうが偉かろうと思う人はいますというか、そういうことになりますよね。

髙橋 やはり、寺があって成り立ってきたことだということは、皆様承知の上で生活をなさっていらっしゃると思うので、そのことを大事にするという気持ちは間違いなくあると思うですけれども、時として、普通の生き方、そのようなものとの峻別がうまくできないことが、起きることもあり得るのだと思っています。

 

「ローカルサミットin高野山」-5

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<土地の所有と利用が分離されている>

藻谷 あとは土地ですね。高野山の山上の土地は、すべて金剛峯寺の持ち物です。

髙橋 一言でいえば、外からみえた方には、金剛峯寺といっていいと思います。-塔頭寺院が持っている部分など、いろいろありますけれども―これは、関西でいえば寺内町という感じです。お寺の中に在家を住ましています。

藻谷 日本全国において、非常に大きな問題というか、日本の特徴は、鎌倉時代というか、平安時代から既にそうですけれども、田んぼをつくった人間がその収益を持つということは、確固として、ずっとあったわけです。つまり、西洋だと領主様が持っているわけですが、日本は、領主様は徴税権を持っているだけで、土地を持っているのは、江戸時代でも何でも全部農民です。

鎌倉時代に、結局、荘園をぶち壊して、開拓した人が持つというルールを確立するわけです。だから、日本中、田んぼを持っている人間が土地を持っているので、それが際限なく細分化されていて、農地解放で、さらに細分化されて、自分の土地をどうするのも自由だということで、日本中、土地問題というのは、にっちもさっちもいかない、際限ない一坪地主運動になっているところで、この高野山というのは、実は、土地を宗教法人がずっと全部持っています。みんなはその上に住んでいるのです。寺の中に住んでいる人間だという特殊な状況が続いているわけです。

髙橋 土地でいう総有です。コモンズでもいいですけれども、そういう土地の所有と利用が分離されているということは、非常に大事なものだと思っています。

藻谷 これは古いシステムですけれども、ヨーロッパのコモンズなのですね。

髙橋 そうだと思います。結局、それは一つの概念でもって一つの地域を縛るため、縛りがかかってくるのです。それが嫌だという人は多いと思います。だけど、地域の永続のためには、持っている方は、処分ができない、借りている方は、借り続けるしかないけれども、その中で、どうやって一つの概念の町をつくっていくかというときには、非常に有効なシステムだと思っています。

藻谷 ずっとここに住んでいる方は当たり前だと思っていたことが、外を見てみると、大阪の人は何でもします。どこでもそうですけれども、自分の土地は、好き勝手に処分できるし、何でも自由です。

ひるがえって、わが町を見たら、これは賃貸しているだけで、ずっと自分の土地と思って、先祖代々、使っているけれども、寺の土地で、勝手にいろいろなことができません。あれをするな、これをするなと、すごく縛りが多いのです。だから、高野の人口が減って衰退するのだという人もいるでしょう。

 

<さらにきつい景観法の縛り>

髙橋 わかりやすい論理ですね。ですから、もっときついのは、景観法がおそらく日本で一番きついと思います。お寺とお寺の間に、私の家があっても景観上はおかしくないという概念ですから、非常にツーバイフォーの簡単なものを建てるわけにいかないのです。

そうすると、宮大工さんに家をつくってもらったら、3,000万円かかってしまいます。紀ノ川沿いの下へ行けば、1000万円未満で70坪の土地付き住宅が売っているという論理と戦わなければいけないのです。そのときに、どう戦っていくか、一歩前に出て、ここを大事に思っていただけるような形をつくるということが、市町村の仕事としてあるのではないかと思っています。

 

<高野町の人口の減少>

藻谷 ものすごく問題が大きいわけです。ちょっとパソコンを開けていただいていいですか。これは出すまいかと思ったけれども、見せます。これが高野町の人口の過去の実績と予測なのです。普段、もう少し貼り付けて格好よくした状態でお見せするのですが、ちょっといじろうと思うので、わかりにくい形でお見せします。

 高野町です。これは、左半分が、1980年から2010年ですから、昭和34年前から4年前までの高野町の人口です。青いところが15歳から64歳です。オレンジが65歳以上です。増えてきたのですけれども、伸び止まりです。そして、14歳以下をご覧ください。黄色です。30年前1,136人、4年前259人です。全国に少子化しているコミュニティは、多々あるのですが、過去30年間で子どもが4分の1以下になったというのは、私が知っている限りでは、ここだけであります。さらに、この成人も、上のところに矢印が書いてあります。ちょっとスケールを外します。ちょっと見えにくくなりますけれども、見てください。このスケールを外すと、こうなっているわけです。実は、30年前の5分の2くらいに、15歳から64歳が減っているという、日本屈指の人口急減コミュニティが高野山なのです。

 まさに髙橋さんが、ここに呼ばれていらしたのが、このあたりですけれども、これが本当にものすごい勢いで減ってしまって、おいおい、どうするのだという状況の中で、ついに町政が変わりまして、いらっしゃるわけです。

 ただ、これについてはいろいろとおっしゃりたいこと、そもそも人口というのは増えればいいのかとか、いろいろなことがあるのですが、今おっしゃったような文脈でここに解説をいただくと、どういうことになりますか。

 

<相ノ浦集落の実態>

髙橋 結局、65歳以上というように物事を判断することが間違いなのです。高齢者を福祉の対象と考えるから、余分なものと考えてしまうのです。そうではなくて、例えば、ここから20分ほど下りた、相ノ浦という集落があります。ここは、おそらく今、高齢化率80%以上だと思います。この4年ほど前、私が退職する直前にそこへ行って、区長さんとお会いしたときに、「髙橋さん、私の集落には、福祉のお世話になる人はおりません」と区長が言いきるのです。

 どういうことかというと、朝6時になって日が当たってくると、皆様は自宅から山へ行って、そして、コウヤマキの枝を切って出荷するのです。また、その集落の中に、実生から苗をつくっているおじさんや、全部のコウヤマキを集荷して、西日本へ出していただくおじさんがいて、そして、そこに若い人たちが勤めにきているのです。

 そのように一元的に高齢者をスパッと切るのではなくて、一つひとつの現状の中で可能性をどのように引きだしていくかという意識を持たないと、何か数字だけでもって切られていくというのは、どうも違うのではないかなと思っています。これは山村問題の中で共通した意識です。

藻谷 これだけ見ると、すごく数字的に見て、いわゆる消滅可能性集落みたいな話になると思うのですが、今、髙橋さんがおっしゃったことというのは、負け惜しみでおっしゃっているのではなくて、この中にちゃんと続いていく芽が出てきているのです。どういうところに芽が出ているかということなのですけれども、このまま続いていきますと、急速になくなるのですが、ロジカーブで言いますと、子どもが確かにすさまじく減ってしまったのですが、下げ止まりつつあるのです。

それから、現役も確かに1回、ガクッと崖を落ちるように減るのですが、このペースでいくと下げ止まりつつあります。あとちょっとの努力なのです。200人くらいの段階で子どもを止めます。そして、ゆっくり下げ止まってきた現役を、現時点で横ばいにすることができる、このころにこれを食い止めるというのは、山全体が崩れるときに、手で止めるみたいなことは無理ですが、ここまできてみると、昔から続いてきた伝統の生活を紡ぎ直すだけで、現役の減少が止まる方向に持っていける、あとちょっとの兆しだと思います。そもそもそのときに半分が年寄りだといっても、年寄りが、みんな現役で元気なわけですから、足してみると、これくらいの人数の実動部隊がいるところで止まります。

 現に、ここに高齢化率に類似した、現役100人に対して子どもと年寄りが何人いるかという比率を出してあるのですが、急速に上昇したのですけれども、これは100ぐらいで、どうも横ばいになって止まるのではないかと思っています。ちなみに東京というのは、今のままいくと、この数字が、やがて120とか140とかになってくるのです。いつまでも悪化し続けます、今の予測ですと。ところが、高野山の場合は100くらいです。つまり、日本の定義で言っている年寄り1人に、それ以外の子どもと現役が1人、要するに、足して2というくらいの比率で安定できるのはないかという兆しが見えます。

 

「ローカルサミットin高野山」-6

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<特殊なことがわかった人が観光に来て成り立つ生態系>

髙橋 きっと高野山の苦しいのは、3,500人と昨日、町長さんがおっしゃいましたけれども、その3,500人が、10,000人以上の方が来ていただけるだけのインフラストラクチャーを支えているということです。つまり、観光というのは、受け入れている地域にとって非常に負荷が高いのです。そういう観光を、どのように負荷を少なくしていくかという手を打たない限り、あらゆるものが10,000人規模で持って、少ない人口で全てのインフラストラクチャーを維持しなくてはならないという重さが非常に苦しいと思っています。

藻谷 なるほど。つまり、本来ここは、もともと10,000人以上の人がいて、そこにまた、さっき、戦前、あれほどたくさんの人が登ってきて、あの人たちが何を食べたかはともかく、全員食べるだけの食料、お米がちゃんと山上に運ばれていました。戦前としては、多分、非常にすごいロジがあって、大体、高野線に乗って来られた方は、わかると思いますが、あれを昭和9年までにひいてあること自体がすごいですよね。普通は、崖崩れで、いつ壊れてもわからないようなとこを通していますが、その後、崖崩れで壊れたことはありません。ちゃんと考えてつくってあります。

すごいのですが、そのあと、結局現代になってみて、いろいろな理由から人口が3,500人まで減ってきたときに、観光客の数だけは、むしろ、当時とは質が違うけれども、車に乗って、1人1人、はるかに広い土地を使う人が大勢登ってきていて、そして、その人たちが宿坊に泊まって、京料理のぜいたくなのを食べるのです。本来の高野山とは違うのです。世界遺産の観光地だといって、大勢の人が来ます。この人が、住民1人当たりから見ると、非常に観光の負荷が高くなっています。

髙橋 ですから、その辺のところをどのように考えるか、その町の将来の描き方です。明日のことはわからないのです。けれども、20年後、30年後に、こういうことをやっていくことは、地域にとって普遍性があるということが、高野山であっても、どんな山村であっても絶対的にあるのです。その未来がわかるということを広げていかない限り、そういう人と人との関係をつくっていかない限り、いくら企業を誘致しようとしたって、もう来ない時代ですから、そのときに、観光なんていう甘い話では、とても地域は再生できないと思っています。

藻谷 つまり、ここを、いわゆる普通の観光地、普通の世界遺産、世界でいうと、西洋人が理想と考える普通のジャパン、ジャポーンとか、高野山のケーブルは、日本の公共交通で唯一フランスのアナウンスが入る謎の交通機関ですけれども、珍しいそのジャポーンだと考えると、実は全然もたないです。極めて特殊な場所として、その特殊なことがわかった人が観光に来て成り立つ生態系につくり直さなければいけません。

髙橋 おっしゃるとおりです。

 

<今の車乗り放題、これは大問題>

藻谷 これは、元副町長として、おっしゃりにくいとは思うのですが、はっきり言ってしまうと、まず交通から見て、普通の交通の今の車乗り放題、これは大問題ですよね。

髙橋 大問題です。ここも町なのです。ですから、モータリゼーションとどう戦うかという意識がなかったら、駄目なものは駄目になってしまいます。そういうこと言ってはいけないのですけれども。

藻谷 そうですよね。現時点で、今日当たり、今日、私は、よせばいいのに、もう本当にばかなのですが、私、朝早く来て、町石道を歩いて往復してこようと思っていたのです、最初の計画では。ところが、突如として、いろいろな事故からパネルコーディネーターしてくださいとご要望をいただいたもので、私が予定していた時間に帰れなくなってしまいます。唯一の方法が、車で来ると、電車で帰るのに比べて、早めに関空に行けるので、何とかなると思いました。それで、うっかり車で来たのが大誤算になりました。私は、今まで、自転車で来たこともあるし、ケーブルでも来ているけれども、車で来たときは、野迫川から来て入ったことしかなくて、正面から来たことがなかったのです。

髙橋 裏バイパスから来たのですね。

藻谷 正面から来て、これは、やればやるほど悪化するということがわかりました。つまり、途中の道もひどいけれども、最後、大渋滞で30~40分ずっと止まるのですが、それは結局、どこが、何が渋滞の原因かというと、途中の道がひどいからではなくて、大門のところから先が動かないから止まっていたのです。つまり、あれは道をよくしたら、もっと渋滞します。

髙橋 今日は最も高野町の中で混む日の一つだと思います。結局、車というものにどう対処するかということを、日本の各都市は、ヨーロッパのようになりたいと言いながら、現実は、車いらっしゃいとやっています。これをどのようにするか。

 例えば、飯田でもって、飯田は、誰も市民は観光の町だと言ってないけれども、第1回の「オーライ!ニッポン」は、飯田市がいただいているのです。バスで何万人という子どもたちが来ても、入口でもって、全部、各戸農家へ4人ずつ分散してしまうから、全然、負荷がかからないのです。どのようにして負荷を分散させて、地域をもたせるかということが、今後の課題としてあるのではないでしょうか。

藻谷 そうですよね。だから、公園の手前にでっかい駐車場をつくって、そこにみんなが止められるようにして中を歩く、あるいは電気自動車で、どうしても動きたい人は動く、そういうやり方をしたほうがいいと思うのです。今の日本的解決でいいますと、その前に環状道路をつくりましょうとなり、要するに、昔の女人道を環状道路にします。そこでスルスル、スルスル通過できるようにしても、通過するだけの人がわざわざこの山上に来ないと僕は思うのですけれども、必ず一般的な解では、訳のわからない先生が出てきて、環状道路をつくって、なぜか通過交通が通れるようにしようと絶対に言い出すのです。今度は、環状道路ができると、その横に道の駅がいっぱいできて、高野山へ行きました。環状道路を通って、道の駅であめを買って帰りましたという人が、大量に発生するのが、今から手に取るように分かるのです。意味がないと思うのですが、放っておくとそうなります。

 

「ローカルサミットin高野山」-7

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<歩いたほうが楽しめるというまちづくり>

髙橋 同感です。今日は、町長さんがお見えですから、ぜひ、よろしくお願いしたいと思います。危険な地雷がいっぱいあります。例えば、一度ここで交通実験をおこなって、私が副町長のときに車を止めたのです。やはり、住んでいらっしゃる方の負荷が厳しくて、かなり反発をいただきました。

飯田でも、さっき言ったように、りんご並木というバイパスを公園にしたのですけれども、それが一般に認識されるまでに11年かかりました。初めて、今年、基本的に「車は入らないでください」という標識をつけました。

藻谷 そうなのですね。

髙橋 ですから、時間をかけてそういうことはやっていかないと、何人ものおばさんが、「髙橋さんがあそこを、車を止めてしまったもので、うちの売り上げが落ちた」といって、泣いて来られるのです。ですから、そういうことは時間をかけてやります。10年なんて、たちまちです。ですから、それを見越して、少しずつやっていくことによって、町そのものは、負荷がだんだん少なくなるのではないかと思っています。

藻谷 飯田のりんご並木は、ちょっとわかりにくいと思います。町の真ん中の大通りだったところは、ただ車が通過するだけで、真ん中にリンゴの並木があるのです。でも車に阻まれて触ることもできません。ただのリンゴがあるグリーンベルトになっていました。それを1からつくり変えて、公園みたいな道に変えました。ただ、いきなり車を閉めだせないので、自由に歩けるけれども、車で通りたい人はゆっくり通ってくださいねという道につくり変えました。11年たって、原則、ようやく車はなるべく入らなくてもいいですよね、公園みたいに使いましょうとなりました。

そうすると、かつて、車の客を相手に成り立っていた店の売上が下がりました。ところが、必ず歩く人相手の別種の商売が成り立つようになるのです。

髙橋 おっしゃるとおりです。

藻谷 その入れ替えが瞬時にはいきません。

髙橋 時間がかかります。ですから、昨日、「並木横丁」がオープンしましたけれども、りんご並木に隣接したところへ、パティオのようなものを整備しながら、人が動くような仕組みになっていくのです。それには、高野町もここの表一本の道路体系から、裏側にある商店街と一体的になりながら、再編成をかけていかないとうまくいかないと思うのです。

藻谷 実際には、その車を相手に商売していた人がやめるのではなくて、ゆっくり十何年かけてつくり変えて、昔、全くいなかった、歩いてくる人を相手にする、お茶をするというように切り替えていけるわけです。

髙橋 おっしゃるとおりです。そういうことです。

 

<自転車で高野町のまちづくりをやりたい>

藻谷 同じように、高野山の場合も、私は、今日、大門の手前に駐車場があったら、本当にそこから先は歩いたほうが早いので、歩きたいなと思いながら、結局、最後まで駐車場がなかったので、ここまで来てしまったのです。せっかくなら、大門の横に道があって止めている人がいたので、止めようかと思ったのです。鈴鹿ナンバーのわナンバーのレンタカーを止めておくと、ぶん殴られるかもしれないので、和歌山ナンバーなら何となくごまかせそうなのですが、結局、ここまで来ました。あのあたりに車を止める場所はないけれども、お金をかけて何とかしてつくって、むしろ歩いたほうが楽しめるというまちづくりにしたほうが、経済的にいうとお金も落ちます。住民だけは、堂々とパスをちゃんと提示して通ったっていいのです。そういうことではないでしょうか。

髙橋 結局、段階をいくつもつくっていくということだと思います。さっきの一期に電気自動車へ変えていくなんていう話はできないのです。

藻谷 あり得ませんね。

髙橋 ですから、この前も、自転車で高野町のまちづくりをやりたいなと思って、環境省さんに私どもの町が申請をしたときに、こういう小さい町では駄目ですと断られてしまったのですが、やってみたいです。

藻谷 上は平たんですからね。

髙橋 上は平たんです。本当に自転車で充分です。僕は自宅から役所まで通っていたのです。非常に通勤のしやすい、いい町です。

 

<本当の精進料理が食べたい>

藻谷 同じように、交通以外に食べ物の問題があります。宿坊で出している食物は、果たして、高野山産なのでしょうか。

髙橋 限りなくクエスチョンです。すみません。

藻谷 私も、別々の宿坊に2度泊まったことがありまして、それぞれ宿坊というのが恥ずかしいくらい、お勤めがある以外は、すべて高級旅館というか、大変快適な生活をしました。こんなところに泊まっていいのかと思いながら、ぜいたくをさせていただいたわけであります。しかも、お値段が安かったのです。8,000円とかで、こんな高級旅館みたいな経験ができるのかなと思いながら、泊まっておりました。実際に、サービスしてくださる方も、お坊さんが修行としてサービスしてくださる、本当に宿坊なのです。ただ、本当の意味で高野山体験なのですけれども、いかんせん、出てくるものが普通の京料理でしたというのが、2回とも強い印象に残っています。

髙橋 十分にあることだという気がしますから、今後の中で、また皆様で考えていただいて、本来は何か、それが大事なことだとご認識いただければいいと、それしかどうしようもないと思います、今のところは。

藻谷 ただ、ゆっくりと、逆に来ていらっしゃる外国人のお客さんが、特にフランス人とかは、むしろ、本当の精進料理が食べたいとか、それから、私が聞いているのは、フランス人の方は、町石道をわざわざ歩く人がすごく多いそうです。

髙橋 皆様も昨日の夕方、夜だとちょっとわからなかったかもしれませんけれども、今の時期の夕方、日が沈むころ、日本人は車でスイスイ通っていきますが、町を歩いているのは圧倒的に海外の方です。どこか別の町へ行ったような印象を受けます。そういう点で、たくさんの文化のたくさんの情報がここに来ているわけですから、それをつかみ取りましょう。その中に可能性は、絶対に出てくるはずだと思います。

藻谷 その一方で、この山上で生活を紡いでいらっしゃる人の空間というものが、例えば、このあたりにあるのです。私は、この間、ひねくれ者なものですから、奥の院の奥から、わざわざ霊園に行って、あれ、売れ残っているなとか思いながら、ずっとこの町民用の公園を見て、さらに、この町民用の住宅団地その他が並んでいるバックヤードをずっと見て歩いてきたことがあります。これはなかなか、裏高野というのですかね、私が勝手に裏高野と言っています。裏高野は別にあるのでしょうけれども、私が名づける裏高野です。皆様、ショッピングセンターに行くと、ついつい、事務所に入っていって、裏でロジをやっている人とか倉庫を見てしまうような人がいるかもしれません。私はそういうタイプの人間なので、この裏高野を見ました。ここでの生活というのは、何とも独特なものがありました。

髙橋 私もそういうところで生活をさせていただいて、役場に勤めておりました。そこにはそこのコミュニティがありまして、それはごく普通の町のコミュニティにかなり近いものでした。町の中で生活してみると、これはまた居住場所を変えたものですから、違った喜びがありまして、高野山というのは町の中ではすごいなということを思いました。逆に飯田のような町は、火事で焼けてしまったものですから、やりたい放題なのです。黄色い家も、ピンクの家もあってもいいのです。それがある程度、活力につながっているけれども、高野山のように皆様が一緒になって朝歩けば、この宿坊で読経の声がして、香の匂いがしてくる環境の中というのは、この尾根を越えた外と内側、この高野町の中でも、別の生活があるのだなという気がしました。

 

「ローカルサミットin高野山」-8

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<コンパクトシティには2つの定義>

藻谷 ただ、この裏高野自体も普通の団地であり、普通の習慣なのですが、僕が歩いてみると高野山だなと思いました。非常に自然が豊かです。

髙橋 高野町に私がお邪魔して感じたことは、1つは、緑が圧倒的に豊かです。僕は都市計画をやっていたから、どうやって緑を増やそうかなと考えていましたが、山の中にある町ですから、緑だらけです。2つ目に、ルールというものをたくさん感じました。たくさん町の中にみられます。昔の女人禁制に代表されるようなルールが今でもある町だなと感じました。3つ目は、私は、日本で唯一無二のコンパクトシティだと思います。

藻谷 コンパクトシティですね。

髙橋 僕がコンパクトシティと言ったら、「副町長、そんなこといったって、あそこの尾根を越えれば下まで転がっていってしまう」と言われましたけれども、私はコンパクトシティには2つの定義だと思っています。中心部にあるべきものがあるということはいいと思うのです。もう1つは、周辺の集落との関係、これがきちんとできているという、2つの条件が要ると思うのです。

 高野町は、周辺の集落との関係が欠けてきました。だから、それを修復して、いかに太くして、そして、高野山で食べるものも、その周辺でできたものがお食事に出てくるような関係を再構築していくことが、大事ではないかと思っています。

藻谷 髙橋さん、そこなのです。皆様、時間が押しせまってきているのですが、これはすごく重要なポイントで、コンパクトシティという言葉を日本で最初に言い出した張本人は、髙橋さんだと思います。ものすごく言葉が二重三重に、めちゃくちゃ間違った方向に使われています。

今、コンパクトシティと言っている人は、人間でいうと、手足を切り落としてダルマさんになるのがコンパクトシティだということを言っています。今、髙橋さんがおっしゃっていたのは違っていて、コンパクトシティというのは、コンパクトに機能が集積した町があって、その周辺の農村部・山村部と、どう実際、有機的に生態系がつながっているかです。それがつながってなかったら、コンパクトシティではありません。

髙橋 そういうことです。

藻谷 人間の脳みそというのは、手足とつながって、体とつながっていてなんぼです。ナウシカの第7巻に出てくる、話があれですが、昔は頭だけちょん切って、頭だけがゴロゴロ、ゴロゴロして、それがなぜか新技術で生きていて、夢想だけをしているという、養老孟司の言っている脳化したような、自分のところ中心で手足は要りません、手足は無駄だから切り捨てました、終わりみたいな、そういうのがコンパクトシティだ、日本をコンパクトシティにするから、農村を切り捨てろみたいな議論に今なっているのです。本当に変なのです。

髙橋 変だと思います。

藻谷 そうではなくて、周辺の農村と連携して、農村を生かせてはじめて、コンパクトシティになります。

 

<東京とは違う特殊な世界をちゃんとつくっていく>

髙橋 そこのところが、どうも忘れています。当初、不幸だと思うのは、青森市か除雪か何かの問題から始まって、経費の削減からコンパクトシティという論議が出てきたことにあると思います。きっとそうではなくて、関係をどうつなぐか、1つの中心の町をキーにして、その周辺とどうつなぐかなのです。これは、柳田国男が昭和4年に書いた『都市と農村』という本の中にきちっと書いてあります。つまり、その周辺部とどうつなぐかということがなくて、小さな一つひとつの、三全総のときにあった、何とか自立圏と言いました…。

藻谷 そうではなくて、三全総のときは、田園都市ですかね。

髙橋 モデル定住圏です。そのあとです。定住自立圏というのがありました。定住自立圏といったような概念が、もう一度見直されないと、いつまでたっても、てんでばらばらに市町村が切り離され、その先の集落も切り離されて、厳しい状況は続くと思っています。

藻谷 結局、全国で起きたことは、古くなった中心は要りません。さっきの人間の例えでいいますと、脳みそは、人体のエネルギーの4割を使っていて無駄なのです。だから、人間が本当に飢え死にしかかったときに一番いいのは、寝ることなのです。脳みそを停止させないと、エネルギーの無駄なわけです。じたばたじたばたして、酸素を食うだけなので、いかに脳死状態に持ち込むかというのが、生き残りの鍵になります。要するに、同じくらい飢えてきた日本の各地が、こんなに金ばかり食っていって、威張っているだけの脳みそである旧市街地は要らない、停止だ、手足だけでやればいいと言って、脊髄反射しかないような地域をつくってしまいました。

 ショッピングセンターと郊外型商店がダーッと並んだところに家があって、どこへいっても埼玉県というのは同じ景色になっています。埼玉には申し訳ありません。埼玉にもいいとこあるのです。埼玉の郊外は、結局、中心が周辺をないがしろにして、勝手にしろ、俺たちは俺たちしか要らない、おまえらは勝手にやっとけと言って、お互いに切れてしまいました。それぞれがばらばらになって、東京の配下に取り込まれてしまって終わりです。そうではなくて、小さい中心と、その小さい周辺がお互いにつながりながら、東京とは違う特殊な世界をちゃんとつくっていかなければいけません。

髙橋 おっしゃるとおりだと思います。これが要らないということは、結局、手が要らなくなって、腕が要らなくなって、県庁所在地まで要らなくなってしまうのです。

藻谷 そうです。次は道州制で県庁が要らなくなります。

髙橋 そういうことになってしまうのです。

藻谷 そのうち、ふと気がつくと、日本はIMFをやっていて、とりあえず、東京は要りませんという話になってもあまり驚きません。ふと気がつくと、全員で自殺行為に走っていくのです。頭は余計だ、手足は要らないと言っているうちに、全身単細胞生物みたいな、ぶよぶよのものになってしまいます。それに対して、宿命的に戦い続けないといけない運命なのが、実は高野山なのです。

髙橋 結局、高野山を見ていると、高野山の中にある前近代のシステム、例えば、職人さんが多いこともそうです。さっきの配達の仕組みもそうです。土地が、近代は所有権なのに、借地なのもそうです。そのようなものを全部洗いだしてみると、前近代の仕組みに現在の課題を解決するファクターがたくさん入っているのです。そのことを常に意識しながら各地や自分の足元を見てみると、その地域の、いうなれば特殊性が何かということを見るには、非常に高野山というのは、価値のある場所だと思っています。

 

「ローカルサミットin高野山」-9

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<とんでもない不便なこの谷の清内路>

藻谷 時間もないのですが、あと1、2分だけです。

 そこで、そのように経験を積まれて、いろいろな経緯があって、ふるさとの飯田に帰られた髙橋さんですが、飯田周辺の本当に限界という意味で、あまり安易に限界集落という言葉を使うべきではないし、多くの限界集落は限界ではないのですけれども、ここはちょっと限界だと僕も思うのが清内路村です。飯田の中心からも離れていて、高速道路は使えないという、とんでもない不便なこの谷の清内路です。昔、この峠道を超えて、中津川に出る人がいたころは、まだ人も通ったけれども、今は高速もあり、いろいろな道もあり、通る人すらいないこの清内路の600人だけ、谷底に取り残された人たちのお手伝いをするということをされています。どのようなことをされていますか。

髙橋 このままお話していいのですか。

藻谷 いや、ぜひ教えていただきたいです。

髙橋 結局、それは、その地域の皆様の生活のありようなのです。例えば、ガソリンが1円安いからと町場へ飛ぶような人は駄目です。要するに、そこの地域の中でどう仕事をつくっていくかです。

幾つかの現場の中には、花木で1,000万円を稼いでいたおじいちゃんがいるわけです。もう90歳になったから、お金は要りません。そうしましたら、5人の若い人に、その技術を伝播するのです。

藻谷 今の人は、伝統工芸をやっていた方なのですか。

髙橋 ではなくて、花木です。要するに、いろいろな草花や木をつくって、それを出荷して1,000万円の収入を上げていたのです。

藻谷 なるほど、農芸ですね。

髙橋 ですから、農業なのです。でも、その人は、もう金は要らないと言うのです。そうしたら、どういうところで何をつくるかということを、市場を呼んで、市場会議をやりながら、若い人たち5人に、そこで自立する道を与えるわけです。

藻谷 食えているおじいちゃんがやっていた仕事を、きちんと若い人に、しかも1人から1人、一子相伝ではなくて、多くの若い人に伝播していきます。

髙橋 おっしゃるとおりです。それを考えたときには、谷間のほうがいいのです。

藻谷 谷間のほうが安全です。ここは谷1本ですよね。

髙橋 平地よりも、谷のほうがいいのです。何か平地のほうがいいとか、一般的に谷間は駄目と言いますが、ただ、今の清内路は、米が一粒も取れないのです。一粒と言ってはいけません、田んぼはいくつかありますから。

藻谷 基本的にはお米が取れないところなのですか。

髙橋 取れないところです。江戸時代には年貢に屋根材を納めたところです。でも、20年後には絶対に食料とエネルギーは100%、ここで自給できる地域をつくるという宣言をして、今、その1つ1つの仕組みをつくりだしたのです。

 そうしてみると、例えば、あるお母さんがお勤めになっていました。日曜日は、自分の時間ですけれども、たくさんの苗をつくって、花を咲かせて、近所に配ります。買い物がどうしても必要なときは、そこにあるよろず屋さんへ行って、お買い物をしてきます。そして、余分な時間でうちの片づけをします。彼女は、「私は丁寧な生活をしている」と言いました。

 どうやったらここでもって自給率を上げられるかといったら、やはり、もう一度、集落を小さい組単位の共同事業を進めなければ、とてもではないけれども、自給なんて話は一遍にできっこありません。どうしますか。もう一度、炭焼きを集落でやってみませんか。それから、ヤギを飼ってみませんか。地域であった昔からの取り組みを、もう一度やって、組合を強くして、地域を強くするというプロセスの中に、20年後にどうしたら自給できるかという案ができるのであって、一期にそんな自給の宣言とか、そういうものではないと感じています。

藻谷 髙橋さんがおっしゃっているのは、終始いろいろなことを実際に動かして、事を起こしているというか、髙橋さんは、すごくイニシエーターなのです。ゼロからスタートして、種をまいていくところがすごいところで、高野町からおられなくなってからも、ずっとそれが続くところがすごいのです。

 徹底的におっしゃっているのは、僕らは、学識経験者を称する人が出てきて、明日やりなさい、終わりみたいなことを言われるけれども、そんなことで動くわけがないでしょう。

髙橋 そのとおりです。僕は、会議へ行っても聞いているだけなのです。だけど、そのときに、丁寧な生活という言葉は、汎用解のある、もっと概念の大きく広げられる言葉だっていうことは拾い出してきます。

藻谷 丁寧な生活ですね。

 

「ローカルサミットin高野山」-10

  藻谷浩介×髙橋寛治

 

<3つを経済学で区別していないことが大問題>

髙橋 ですから、指導するのではなくて、その方々のおしゃべりを聞いて、その中から地域の可能性のあるものを引きずりだすのが、プランナーの仕事だと思っています。

藻谷 このすごく立派な話というか、多分、皆様全体的に同じことを考えているところですが、私は日ごろ、お金で物を考えている人相手に説得するのが仕事なもので、金しかわからない人用に、最近つくったのがこのパワロなのです。これは、佐渡島に行くときにつくったのですけれども、皆様、あなたの地域は何で人口が減るのですか、それはお金の使い方を間違えているからですと、今、髙橋さんがおっしゃったことを、非常にがさつに言い換えているだけです。

 お金の使い方は、3種類あります。それは、受け取った人が地域内でまた使ってくれる、地域内で回るお金と、それから、地域内の人ですけれども、うっかりこいつに渡すと、一生貯金されて二度と戻ってこない、つまり儲けた人が貯金しているだけの貯金道にはまって、結局、子ども、孫の相続人のところにいって消えるお金です。上勝の葉っぱがこれの典型なのです。お母さんが山へ入って、葉っぱを取って儲けたものを、全部、貯金されて終わっているのです。最初から外に払ってしまうお金、この3つを経済学で区別していないことが大問題なのです。

 大事なのは、受け取った人が、地域内でまた使うものを増やさなければいけないし、これはお金とは限りません。物々交換でいいのです。ということで、地域内の人の給料とかを増やさなければいけないのですけれども、一番大事なのは、原材料を地元から買うだけではなくて、物々交換で手に入れて、なるべく地域内で自給的に設備をつくって、そして、光熱費は、とにかく一番の地域外に直行する最大の問題点なので、これを地域内でちゃんと穴を塞ぎましょう。そういうことに地域内のお金を投資しましょう。そうすると、必ず受け取った人は、地域内でまた使うお金が増えますという、現段階で、まだプリミティブなステップなのですけれども、こういうものをつくりました。皆様が日ごろからずっと思っていることは、ここに尽きていると思います。

 ただ、これは言っているだけなのですけれども、髙橋さんは、谷1本しかない、限界的な清内路村、しかもこれはもう村がなくなっています。しかし、そこで、近しい地域の人たちで、これを紡ぎ直して、地域内のお金じゃなくて、地域内にあるものを、お金に換算されない部分を回しながら増やしていけば、必ず出血が減る分、そこで、食える人間が増えていくし、現に人口が増えているよということをおっしゃっているわけです。

髙橋 おっしゃるとおりです。

 

<地域を再生する可能性>

藻谷 不詳の弟子としては、かなり頑張りました。

髙橋 恐れ入ります。ただ、そういうところでないと、外からの人は入って来ないです。来て、住んでみようと思うところはそういう地域ですから、そういうところを日本の各地にたくさんつくりましょう。それが東京に負けないことになるのです。課題は東京です。ぜひ、そういうことをみんながやっていただければいいなと思います。

藻谷 東京について一言申し上げておくと、東京は、結局、今まで日本中の金が集まる仕組みをつくったので、何が起きても還流してよかったのですが、最近これだけ油代が高くなって、燃料コストが高くなってくると、もう10年前の3倍ですから、東京自体も、光熱費がだだ漏れ状態になってまいりました。だから、東京でもう雇用が増やせる余地がないのです。

 ちなみに、くだらない原発をする、しないというのはどうでもいい話ですが、原発をすると、今度は、さらに原発でやった使用済み核燃料の費用コストも、結局、出ていってしまうお金で、東京に発生しないお金ですから、やればやるほど、東京からお金が漏れていってしまいます。事実、東京は人口が全く増えていません。2020年までの10年間に、首都圏1都3県が7万人しか増えないという予測が立っていますけれども、そうでしょうね。ちょっと前までは10年間で200万人が増えていたのです。

 本当に、はっきりこの原則を打倒するのです。むしろ山村・農村から紡ぎ直さなくていけません。ここにいらっしゃる地域で実践していらっしゃる方は、そうだからと当然、最初からわかっていたと思うですが、今の日本で最初のころからそれを始めている高橋さんのお話を聞いて、いや、これはこの先に道があるぞと確信をさらに強めていただけたのではないかと思います。

 最後に、髙橋さんに、皆様に一言、言っていただいて終わりましょう。

髙橋 いろいろと、本来は藻谷さんの話をお聞きしなくてはいけないのですが…。

藻谷 本来ではないです、これが問題です。

髙橋 いえいえ、申し訳ございませんでした。山の中で仕事をしていると、素晴らしい言葉を持っているお年寄りにたくさん出会います。年寄りほど素晴らしいものはないのです。その皆様の話をじっくり聞いてください。余分なことを言う必要は全くないです。その中に地域を再生する可能性が、いくつもいくつも転がっていますから、それをその地域の皆様がルール化すれば、必ず100の集落には100の再生の仕組みが生まれてくるはずです。

藻谷 ルール化までいかなければいけないのですね。自主ルールです。

髙橋 そうです。地域にコミュニティがないというのは、東京がつくったうそですから、ぜひ、その地域ごとのコミュニティをつくり上げていくことが、今、私たちに求められていることです。

藻谷 役場がなくても自主ルールはつくれるのですね。

髙橋 当然できます。ですから、そのことを忘れないように、村を大事にして、お互いに聞こうではありませんか。よろしくお願いします。どうもありがとうございました。

藻谷 どうもありがとうございました。(拍手)

ローカルサミットin高野山.pdf


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