厚沢部町の地理的環境

位置

厚沢部町は北海道の南端、渡島半島の日本海側の檜山管内に位置する。江差町、上ノ国町、木古内町、北斗市、森町、八雲町、乙部町の 7 市町村と境界を接する。

町の総面積は 460.42 km2で、東西約 29km、南北約 27km の広がりをもつ。町域は厚沢部川とその支流である安野呂川、鶉川の三河川の流域にまたがる。総面積の 80%を山林が占め、畑 5%、田及び原野がそれぞれ4%を占める。

 

地質

厚沢部町域の地質は、館地区を流れる厚沢部川本流域と、鶉川流域及び安野呂川流域とに大別できる。いずれの流域でも、中流域では檜山層群に属する堆積岩が主体となるが、厚沢部川上流域では厚沢部層及び館層に属する堆積岩が主体となり、鶉川、安野呂川上流域では安野呂火山砕屑岩類に属する火成岩が主体となる。また、厚沢部川左岸の下流域には松前層群に属する古生層が分布する(参考文献:北海道開発庁 1970、工業技術院地質調査所 1975)。

 

気候

厚沢部町の所在する渡島半島西岸部は北海道内で最も温暖な地域として知られるが、厚沢部町域は内陸に位置するため、同じ檜山管内の日本海に面した地域と比較し、平均気温で約1°C、最低気温で約3°C低く、最大積雪量は隣接する江差町の約3倍である。

 

植生

厚沢部町域を含む檜山管内南部は、ゴヨウマツ、ヒバ自生の北限及びトドマツ自生の南限にあたる。

鶉川上流右岸の一帯は昭和3年に、「鶉川ゴヨウマツ自生北限地帯」として国の天然記念物の指定を受けている。隣接する江差町には、「ヒノキアスナロおよびアオトドマツ自生地」がある。また、町内緑町に所在する「土橋自然観察教育林」は、松前藩時代から留山として保護されてきた「羽板内山」の一部を含み、ほぼ原生の状態を維持している(檜山営林支局計画課 1980)。南限の植物と北限の植物相の境界となっていることから、生物多様性に富んだ自然景観が形成されている。

 

道路

道路網は、国道 227 号が町内を東西に横断し、これを軸として、道道 6 路線、町道 186 路線がある。

 

厚沢部町の歴史的環境

町名「アッサブ」の語源

町名「あっさぶ」の語源は、アイヌ語の「ハチャム・ベツ」(桜鳥・川)とする説(永田 1891)と「アッ・サム」(ニレの樹皮を・干す・処)とする説(本多 1995、更科 1966)がある。

 

集落の沿革


現在の集落の基礎が築かれたのは、各集落の伝承によると室町時代末から江戸時代初頭とされ、松前藩の歴史書である『福山秘府年歴部巻之五』(北海道庁 1936)延宝 6(1678)年の項に、この年初めて「西部阿津佐不(西部あつさふ)」山中のヒノキを切らせた、との記録があり、また、『赤石系譜略伝(抄)』(函館市中央図書館所蔵)には、同年冬に「アツサブ山中の檜樹、始テ開発ニ依テ官府ヲ江差ニ移ス」との記述がある。

延宝6年の厚沢部山中におけるヒノキ山の伐採開始が、厚沢部とその周辺地域に大きな影響を与えるとともに、この時期に現在の厚沢部町の各集落が形成されたと考えられる。

弘化3(1846)年に厚沢部とその周辺地域を訪れた松浦武四郎の『再航蝦夷日誌巻之三』(吉田1970)には「漁の時期には皆浜に出て稼ぎ、その後、山稼ぎするなり。畑作炭焼き、また檜山稼ぎも多し。鮭場一カ所有り。秋味の節は、流し木を禁ず。」との記録があり、江戸時代の厚沢部川流域では、春のニシン漁と炭焼きやヒノキ伐採を生業としていた様子がうかがえる。

安政6(1859)年から松前藩は厚沢部川流域で大規模な水田開発を開始した。江差町郷土資料館所蔵の「開墾規定所」(脇家文書-038)によると、松前藩は越後国から厚沢部川流域に農夫を移住させ水田開発を進めた。移住農夫には、松前藩が移住費用の一部を負担し、農具類の支給・優遇措置を行い農夫の定着を図ったようである。

明治4年に戸長制がしかれ、明治9年には俄虫村外6ヶ村の戸長役場が設置された。

明治期になっても住民の暮らしには大きな変化は見られず、大正初期までは江戸時代同様、山仕事や駄送、漁場仕事が主な生業だったと考えられる(林 1979)。明治 20 年頃から山田致人らのキリスト教徒が鷲ノ巣(現字富里)を中心に入植し、本格的な農業開発が開始された。明治 39 年に第2次二級町村制施行により「厚沢部村」となった。明治 42 年から大規模な移住民勧誘が実施され、明治 39 年から明治 42 年までの四年間の間に、厚沢部村では戸数 84 戸、人口 1,477 人の増加となった。その後、昭和初年にかけて、人口の増加が進行し、特に大字館村では人口増加が著しく、大正 12 年には「役場移転問題」を引き起こすこととなった。

明治 43 年に現在の新町に檜山農事試作場が設置され、この試作場を含めた全道の農事試験場、試作場で大正 14 年から昭和2年までの3カ年のメークイン試験栽培がなされ、メークインが檜山地域の奨励品種となった。以後、メークインは厚沢部町の特産品として盛んに栽培されている。

昭和 38 年に町制が施行され「厚沢部町」となる。

昭和 30~50 年代にかけての高度成長期には、厚沢部川河川改修工事、国営厚沢部川総合土地改良事業、館第二地区道営パイロット事業などの大規模な開発工事が立て続けに実施され、現在の厚沢部町の環境基盤整備が行われた。「平成の大合併」に伴う市町村合併については、平成 14 年に任意協議会「檜山南部5町合併協議会」、平成 16 年に法定協議会「檜山南部4町合併協議会」が設置され、合併問題の議論が行われてきたが、厚沢部町は合併を見送ることとし、現在に至っている。