大正4年の鹿子舞と青年団

大正4年のお盆に、澤口松太郎さんたち、根符岱組(ねっぷたい 現南館町)の若者はいつものように鹿子舞の準備をしていました。そこへ、御料林(国有林)の役人をしていた松田茂さんがやってきて、「君たちは古風の若者連中で、ただ鹿子踊りをするより青年会と改め、盆相撲を興行してはどうだろう。」と言いました。松太郎さんたちは「この話に我々一同大いに同情す。獅子踊りを打ち捨て相撲を立てることに手配せり」ということで、鹿子舞をやめて、815日に相撲イベントを開催しました。

相撲イベントは大成功だったようで、寄付金29円、支出24円で5円の残金を青年会の財産としました。また、松太郎さんたちの活躍をみた警察署からの依頼で、817日に館地区全部の青年会を集めた「連合青年会」を発足させました。松太郎さんたちも自分たちの根符岱組周辺の若者組を集めて「館青年会」としました。

青年会の結成の状況が若者目線で書かれた資料は多くはありません。『備忘録』に記された館青年会発足の経緯はきわめて興味深いものです。御料林の役人がどのようなつもりで青年会を発足させようとしたのかはわかりませんが、郷土芸能鹿子舞が「古風」な若者の象徴とみなされていたこと、鹿子舞よりも相撲が青年会にふさわしいと考えられていたこと、警察が青年会結成に大きな関心を払っていたことなどがわかります。

日露戦争に勝利し、アジアの新興国としての地位を確立した大日本帝国が若者たちに期待したこと、そして、若者たちがそれを前向きに受け止めたこと、その結果、伝統的な日本社会が変化していった様子をみることができます。

(2016.09.16 石井淳平 『広報厚沢部』10月号掲載原稿を改変)


大正3年の厚沢部の交通  

大正3年の冬、澤口松太郎さんは館の泥川上流で山仕事に精を出していました。

36日、八雲にいた澤口松五郎(弟か?)が病気にかかったという知らせを受けました。今でこそ、八雲へ出るのは簡単なことですが、当時は大変だったようです。館村から八雲まで行く当時の一般的なルートは、館村から徒歩で山越えして木間内へ出て、乗り合い馬車で大野本郷へ行き、本郷から汽車で八雲まで行くものでした。

松太郎さんは旅費10円を工面し、37日午前5時に自宅を出発しました。松太郎さんは「木間内越」と呼ばれる道をたどりましたが吹雪にあい、「いかに歩行しても鶉村に出ず」という完全な道迷い状態になりました。

11時頃に晴れ間が現れ、右手に見えるはずの太陽が左手に見えたので、自分が完全に方向を失っていたことに気づいたようです。このとき松太郎さんは「よほど戻るかと思った」と書き記すほど戦意喪失したようです。しかし、病気の松五郎を思い起こし、深い雪の中を懸命に進み、午後8時頃大野本郷にたどり着きました。驚くべきことに、松太郎さんは木間内で馬車に乗り遅れ、大野までを徒歩で踏破しています。

 

(2016.09.16 石井淳平 『広報厚沢部』9月号掲載原稿を改変)


大正3年の厚沢部農業

大正2年はさんざんな作柄だった澤口松太郎さんですが、明けて大正3年は無事に田植えシーズンを迎えることができました。

松太郎さんの田植えは619日に行われていますが、その前日に館村で最初の田植えが行われました。

この年の澤口家の田の作付は約1町歩(約1ha)でした。田植えには植え手12人、人夫13人、合計25人が参加しました。植え手12人のうち、11人が女性です。人夫13人はすべて男性でした。これらの人々はいずれも他の家からのお手伝いです。

当時は田植えの手伝いに来てくれた人にはごちそうをふるまっていましたが、この年は前年が凶作だったためどこの家でもごちそうはなかったようです。松太郎さんもごちそうは出さずに、休憩のときに「小豆飯」をふるまいました。

このときにふるまわれた小豆飯の量が驚異的です。白米2斗(30kg)、小豆2升(2.5kg)が使われています。一人あたり8合もの白米を消費した計算です。ごちそうを出せないので奮発したのかもしれません。そもそも、当時の人と今の人では穀物の消費量が全然違うので、なかなか現代の感覚ではとらえきれないのですが。

なお、この年の厚沢部農業は大豊作だったようで、松太郎さんの植えた1町歩の田は20石(3,000kg)の収穫量がありました。大正二年の23斗から10倍近い収穫量の増加がありました。

大正2年から3年の作柄の変化は極端なものですが、当時の農業は天候まかせでとても不安定なものだったことがわかります。

(2016.09.16 石井淳平 『広報厚沢部』8月号掲載原稿を改変)


大正2年の厚沢部農業

厚沢部町の南館町に住んでいた澤口松太郎さんの残した『備忘録』から大正二年の厚沢部農業の様子をみることにします。なお、松太郎さんは、故・澤口松雄元町長のお父さんです。

下の表は、松太郎さんが大正2年に作付・収穫した作物の一覧です。

作物 作付   収穫     反当収量  
壱町三反五畝歩 13,388㎡ 二石三斗 345.0 kg 25.8 kg
ヒエ 六反歩 5,950㎡ 八斗 92.0 kg 15.5 kg
大豆 五反歩 4,959㎡ 六斗 72.0 kg 14.5 kg
小豆 二反歩 1,983㎡ 二斗五升 37.5 kg 18.9 kg
トウキビ 二反三畝歩 2,281㎡ 二石四斗        
イモ 二反歩 1,983㎡ 二石八升        
ソバ 一反六畝 1,587㎡ 一石二斗 138.0 kg 87.0 kg
合計   32,132㎡          

耕作面積は32千㎡ですから、それなりの規模の農家です。しかし、収穫量の少なさに驚かされます。平成27年現在、道産米は一反あたり、559kgの収穫量ですから、わずか20分の1です。イモ、トウキビ、ソバでそれなりの収穫量があるので、家族が食べていくことはできたと思いますが、楽な暮らしではなかったはずです。もっともこの年は「大凶作」と松太郎さんがいうように、農家には大変な年だったようです。

なお、松太郎さんは農業ばかりでなく、冬にはヒバの伐採で現金を稼いでいます。ヒバの伐採で110円(今の100万円程度か)を稼いでいますが、借金を返したら全てなくなり、「僕一人にて25円以上の借金を残す。」という様子でした。

(2016.09.16 石井淳平 『広報厚沢部』7月号掲載原稿を改変)