Library3.0 社会をつくる学びを提案する について知っていることをぜひ教えてください

 

【ひとことで言うと】

Library3.0 「地域の知のコモンズ(共有地)として、地域の継続と価値創造を担う知の獲得—創造—蓄積—共有の循環を触発し、生み出す」機能を持つ「これからの図書館」

 

平賀研也 「社会教育」2016年11月号

明日をつくる多様な知のコモンズ(共有地)としての図書館を構想する(私論)

「社会をつくる学びを提案する」

 

 『社会教育』は2015年4月から「社会をつくる学びを提案する」を掲げている。今回、編集長からの「未来につながる地域の社会化装置としてのライブラリー」という視点(1)を提示できないのか?というご依頼には、これまで自分が図書館に関わり考え、行い、話し、書き散らしてきたことに照らして「我が意を得たり」と思う。

 

 これまで図書館長として追い求めてきた「これからの図書館」のイメージは、地域の知のコモンズ(共有地)として、地域の継続と価値創造を担う知の獲得—創造—蓄積—共有の循環を触発し、生み出す場としての図書館であり、そこに集う地域の人々によって、明日の地域社会をつくるコミュニティ形成の核、ソーシャルキャピタル形成の場、新しい公共空間となるような場や活動であったから。

 

 しかし、本来門外漢である私としては、いち実務者として、社会や図書館から見てとってきたことを元に「これからの図書館」を考えていく自分なりの道筋を整理してみることしかできない。本稿で行うことは、これまでの図書館のありかたを理念型として描き、批判的に評価しその本質を見極め、それを止揚・継承しつつこれからの「図書館」の理念型をLibrary3.0(ライブラリー・バージョン3.0)として描いてみるという試みである。

 

 これからの図書館や社会教育を担う人々が、図書館という枠に閉じこもることなく、自由に明日の図書館を構想するための小さなきっかけになればと思う。

3.11のあとに起こったこと

 

 「これからの図書館」の話をはじめるにあたって、まず3.11東日本大震災のあとのわたしたちの話からはじめたい。そこには、今わたしたちが、これからの「知る」こと「学ぶ」こと、そして図書館について考える時に確認すべき課題と原点が見えると私は感じている。

 

 東日本大震災による津波や原発事故による激甚かつ広範な被害を目の当たりにし、ただただ呆然としていた月日の後に、議論が東北の再建・再生に向かおうとする頃、私は密かに期待をしていた。それは、これから地域や社会全体に巻き起こるであろうさまざまな議論の進み方は、単に東北地方の地域再生ということを越えて日本の社会のありようを変えていくような、これまでと違うものとなるのではないかという期待だった。

 

 あの頃、科学・技術が守れなかった命と人々の暮らしのことや、遠く離れた地域の資源や景観や人々のくらしに頼りながら成り立っている私たち自身の暮らしのことなど、普段は自分が気づかずに依って立っているものの危うさについて誰もが考えたはずだ。

 

 そんな時だからこそ、これまでの自らの価値感から解き放たれ、それに対する懐疑も明らかにしながら、多様な異なる他者と関係を築くことができるのではないかと私は期待したのだ。この四半世紀にわたる社会の閉塞状況の中で、一歩も議論が進まないさまざまな社会課題を共に解きはじめることができるのではないかという期待だった。

 

 しかし、五年が経過した今、地域や日本の社会課題解決の現状は一体どうなっているか。私の淡い期待とは真逆な方向に進んでいるように思える。

 

 コミュニティにおける新しい熟議、コミュニケーションのプロセスは創り出されることもなく、三陸の海岸地帯では安心・安全の名の下に土木技術がふるさとの景観をまるごと埋葬している。震災を記録するアーカイブの取組みも、おおかたは地域に暮らす人々を十分に巻き込むこともできないままに、有識者や専門家が取りまとめた企画に沿って予算年度通りに粛々と進み、メモリアル施設建設やイベントが繰り広げられている。

 

 日本全体に目を移しても、科学技術やエネルギーや安全の概念についての議論などなされる様子もなく、言論の場では極端な排除の論理が横行し、人々の不寛容な言論は社会的弱者や経済的弱者の切り捨てに向かおうとしているようだ。

 

 わたしたちは、目先の経済的利害に左右されて悪びれもせず「しょうがない」ことと割り切って物事を進めていないか。あるいは、必ずしも合理的ではない情報に依って立ち、それを拡散し、自らの思いを正当化することに血道を上げていないか。

 

 こんな現在に、私は自らのありようも含め、個人としてはもちろん、図書館に関わるものとして、心底落胆している。人々が情報を探し、選びとり、編集・表現し共有する力はこんなにも頼りないものだったのか、と。

 

 戦後七十年、少なくもこの半世紀にわたって市民の知る自由を保証する「民主主義の砦」を標榜し、人々に本や情報を提供してきた図書館の活動とはいったい何の意味があったのだろうか。

 

 「社会と個人の自由、繁栄及び発展は人間にとっての基本的価値である。このことは、十分に情報を得ている市民が、その民主的権利を行使し、社会において積極的な役割を果たす能力によって、はじめて達成される。建設的に参加して民主主義を発展させることは、十分な教育が受けられ、知識、思想、文化および情報に自由かつ無制限に接し得ることにかかっている。地域において知識を得る窓口である公共図書館は、個人および社会集団の生涯学習、独自の意志決定および文化的発展のための基本的条件を提供する」(UNESCO Public Library Manifesto 1994)(2)という役割を担っているはずの日本の「図書館」は何を成し遂げたのだろう。

 

 一方で、被災地における地域コミュニティの極限状況は、図書館や情報、さらには「知る」ことの原点も見せてくれていて、私たちがこれからの図書館を考える際のよすがとしたいと思える。

 

 例えば、震災直後の夏に訪れた気仙沼市立図書館の入口には、人々が今必要とする地域の住むこと、働くこと、子どもを育てること、医療のこと、社会保障に関わること等の情報が壁一面に見事に整理されて掲出されていた。情報提供を通じて地域社会に安寧を届けようとする図書館の人々が、自らも被災者として、「自分ごと」としてコミュニティを支えようとする真摯さがそこにはあった。

 

 更に本質的なことは、被災したコミュニティの取組みを見るにつけ、「人はなぜ知り、記録し、伝え、共有するのか」ということに気づきを与えてくれるということである。

 

 あれから4年が経った昨年末来、仙台市若林区の荒浜地区にご縁を頂き、何度か訪問している。3.11の翌朝の朝刊一面に掲載された、海岸の松林を越えて荒浜に津波が押寄せる写真を忘れることはできない。地域の住宅のほぼすべてが流され、ここに住んでいた約二千人のうち百八十名余の命が失われた。

 

 今、荒浜地区は災害危険区域に指定され、建築物を建築し定住することはできない。地区の人々は復興住宅に移りあるいは仮設住宅に住み、かつてのコミュニティとは切り離された場で暮らしはじめている。しかし、「荒浜再生を願う会」の人々は毎週かつての町に集い、月に一度は外から訪れる人々も迎えて汁ものや石釜ピザの「お振る舞い」をしつつ、海水浴場であった浜の蘇生活動をしている。

 

 そこでは、自らも荒浜の住人であった庄子隆弘氏が、地域の未来をつくる学びの場としてはじめた「海辺の図書館」(3)や、NPO20世紀アーカイブ仙台の佐藤正実氏らが企画する「3.11オモイデアーカイブ」の活動(4)も展開されている。

 

 家も、隣人も、本も、思いでのアルバムも映像もすべてを流されてしまった人たちが、なつかしい1枚の写真を前に、思い出や、暮らしのありさまや、その時のそれぞれの思いについてわれもわれもと語り合う。震災から5年経った今、そこには笑顔があふれている。そして、自然に自分たちのコミュニティがこれからどうあるべきか、共に何を創っていくかという話がなされている。

 

 今は震災の語り部をしている方は言う。「わたしもね、津波ですべてを失う前にはこんなことあたりまえのことだと思っていたのさ。でもね、あたりまえの暮らしの中にどれだけ大切なことがあったか、失った今だからわかる。これはあなたの町だって同じことではないのかな」

 

 こうしたコミュニティの活動は、図書館が知を記録し、保存し、公開することの本質的な意味を見せてくれている。わたしたちがもしすべてを失った時に取り戻そうと思うのは「われわれはいずこより来たのか」ということであり、そのこと無しに「いずくへと行かんとするか」を語り合うことはできない。そして、そこに単なる資料や情報があることに留まらず、人々がコミュニケーションしながら知り、学び、共有し、創造することが肝要なのではないのか。

 

 これが「知る」ことの原点だ。そして、これは何も地縁社会としてのコミュニティということに限られるわけではない。

 

 では、この半世紀の図書館が創り上げることができなかったものとは何なのか?見過ごしてきたものとは何なのだろうか。

 

 これまでの日本の図書館の姿を図書館の「役割」「機能」「サービスプログラム」の要素で理念型(本質を理解するための仮設の要素)として描きながら「これからの図書館」が受けつぐべき本質がどこにあるのか批判的に考えてみよう。

Library1.0

 

 ここでLibrary1.0と呼ぶのは日本の現代図書館のベースにある近代以来の図書館の姿である。

 

 その「役割」は「人間本来の理性の自立を促す知識と教養を広める」という18世紀的な啓蒙主義的あるいは教養主義的な要請である。また「機能」は、資料(本)を「収集・保存」し「提供」することである。これに伴って提供される「サービス」は閲覧サービスと調査支援(レファレンス)サービスであり、利用する者にとっては提供される資料を「読む」という静的なサービスである。

 

 知識と教養の中味が何かと言えば、日本の少なからぬ図書館が教師たちの組織である教育会により創設されたこともあり、元々は古典としての文芸、哲学思想を中核とし、その余の分野も「研究」を指向していた。

 

 そして今も、図書館における資料(書籍)の収集・保存に対する姿勢といえば、本というメディアが担う情報の量と質が大きく変化してきたにもかかわらず、元来の古典に対する姿勢と全く変わらないまま、「資料の収集・保存・提供」という「機能」自体が自己目的化している。

 

 こうしたLibrary1.0のあり方は、日本の公教育が、産業資本社会(企業社会)にとって有為な標準化された人材を育成する仕組というパラダイムから今も抜け出せずにいるのと同じだ。18世紀的な啓蒙・教養主義的要請と19世紀的産業資本主義的要請からなるアカデミズム(学問至上主義)をその柱とすることの帰結である(5)。

 

 アカデミズムを体現する場というイメージが今も図書館の基層をなしており、図書館の存在意義を問われた際に、ともすれば真っ先に語られるのが、希少な資料の提供や「学習」の場の提供や調査サービスであることからもそのイメージの根強さが理解されよう(実際のサービスは圧倒的に比較的新しい本の貸出であるにも関わらず)。

 

 lIbrary3.0を構想するにあたり今一度深く大胆に考え直さねばならないことのひとつは、それぞれの図書館はなぜ、何のために、いかなる情報をどのように「提供」するのかということである。

Library2.0

 

 Library2.0は『中小都市における公共図書館の運営』(1963)(6)と『市民の図書館』(1970)(7)が提示し、半世紀が経過した今も日本の公共図書館が依って立つ図書館の姿である。

 

 その「役割」は「国民の自由な思考と判断を保証し、自由で民主的な社会を築く」ことである。また「機能」は「自由・公平・積極的な資料提供」とされ、そのためのサービスの三本の柱とされるのが「図書の貸出」、「徹底した児童サービス」、「地域全域に対するサービス」である。「図書の貸出サービス」を核とし、児童に読書と図書館通いを習慣化させるためのおはなし会、読み聞かせ、本の紹介(ブックトーク)や、移動図書館車や分館を通じたサービスプログラム提供が推奨された。

 

 この半世紀の取組みは、「ポストの数ほど図書館を」(8)という児童読書・地域文庫活動を進める人々の声にも支えられ、全国に図書館を建設し、書籍の貸出を中心とした利用者数を増やし、利用者の裾野を大きく広げた。文科省が実施する「社会教育調査」によれば、昭和46(1971)年から平成23(2011)年の間に、全国の図書館数は917館→3274館(3.5倍)と増加しつづけており、全体としては減少している社会教育施設の中では特異な存在である。また、年間利用者数は千三百万人→1億8千7百万人(14倍)、貸出冊数は7千5百万冊→6億8千2百万冊(9倍)へと増加した(9)。

 

 また、読書ということにとどまらず、誰もが、何の目的もなく、お金がなくとも気軽に過ごせ、一定数の人が集積する場を町の中に作ったことは、今となれば大きな財産である。そのような場は公園と図書館しかないだろう。

 

 一方で、確かに図書館がサービス対象とする人(児童)やサービスの方法(貸出)は異なるものの、機能として「資料の提供」を掲げていることはLibrary1.0と何ら変わらない。その前提で利用者数や貸出数を追い求めた結果、図書館は単なるサービスを受益する場所となり、「もっとたくさん、もっといろいろ、もっと便利に、もっと心地よく」という際限ないニーズを拡大再生産し、消費的な公共サービス像をつくってしまったと言える。

 

 また、図書館という事業の枠組を「資料の提供」にととどめつつ、その効果として「国民の自由な思考と判断を保証し、自由で民主的な社会を築く」役割を果たすとしたことの間には、今となってみれば大きなギャップがあったことは否めない。所与の前提として個々の「人間が本来持っている理性」や「自立的市民」としての個人を置き、そうした個々の「市民」のニーズの総体こそ唯一正しい価値とし、知的放任主義とも呼ぶべき立ち位置をとったのがLibrary2.0である。

 

 これらのことはさらに、高度成長期の社会の変容のままに、図書館もまたコミュニティや家族の中にあったはずの関係性の解体に寄与してしまったとも言える。

 

 高度経済成長期に進んだ地方の過疎化や都市人口の拡大と核家族化は、個人の暮らしを消費・市場的な選択に委ね、実体としての人の関係性を希薄化・解体した。「市民の図書館」もまた、戦前の図書館が国策に向けて善導したという反省に立って出発したことは大いに理解できるものの、権力の介入排除という思想の延長線上に、隣人や親子ですら個人の知る自由を脅かす可能性があるものとして扱ってきた(10)。

 

 冒頭に描いたような現在の社会の様相に照らせば、資料・情報の「使い方」やそれを用いたコミュニケーションのあり方について図書館こそ、それを涵養する場になり得たのではないかと惜しまれる。90年代の市場の失敗、政府の失敗を受けて、公共政策が「家族ができることは家族が、地域ができることは地域が」という補完性原理に向く今、私たちが直面するのは既に解体され、再び再構築しなければならない家族や地域なのだ。

 

 これからの図書館が実現すべきことのひとつは「関係性の構築」といえるのではないか。

Library2.0の今

 

 この十年余、これからの図書館を模索するさまざまな試みが現れてきた。

 

平成18(2006)年に「これからの図書館の在り方検討協力者会議」が取りまとめた提言「これからの図書館像-地域を支える情報拠点をめざして-」(11)にある「地域を支える情報拠点」として「課題解決支援機能の充実」と「紙媒体と電子媒体の組合せによるハイブリッド図書館の整備」(提言のうち既存の機能の強化という範疇の視点を除くとこの2点)をめぐる新たな取組みが目を引く。

 

 それらを類型化すれば以下のようにまとめられる。

 

1. 情報に関するもの

 

・課題解決型サービスの指向(ビジネス・法律・医療・政策情報支援を中心として)

 

・デジタルアーカイブの構築とそれを核にしたMLA連携

 

・オープンデータの活用・創成(Wikipedia Townなど)

 

2. 空間に関するもの

 

・公共施設の整理統合・更新の中で多目的交流施設の核機能としての図書館

 

・交流・創造拠点としての図書館

 

3. 運営に関するもの

 

・地域政策に従った図書館運営(賑わい創出等)

 

・指定管理による図書館運営

 

・PPP/PFIによる図書館建設・運営

 

・住民の参画・主導(まちじゅう図書館等)

 

・学校図書館運営との連携

 

 こうしたチャレンジは今も続いているが、資料提供やレファレンスという旧来の枠組みを超えているものは多くないし、図書館全体として明確にこれまでとパラダイムの異なるビジョンを提示し貫徹している事例を聞いたことはまだない。

Library3.0

 

 さて、上に見たようなこれまでの図書館を発展的に継承し「未来につながる地域の社会化装置としてのライブラリー」を構想するときそれはどのような理念型となるだろう。

 

 冒頭に触れた「明日の地域社会をつくるコミュニティ形成の核、ソーシャルキャピタル形成の場、新しい公共空間」という役割を果たすために、「地域の知のコモンズ(共有地)として、地域の継続と価値創造を担う知の獲得—創造—蓄積—共有の循環を触発し、生み出す」機能を持つ「これからの図書館」には以下のような要素が不可欠だろう。

 

1. 多様な情報資源へのアクセスの場

 

 図書館が自ら収蔵する書籍だけでなくウェブやデジタル情報も含む情報提供をすべきことはもはや言うまでもない。

 

 デジタル化により、書誌・書影のみならず博物館や美術館やさまざまな機関のの資料も情報化されアーカイブ化されつつある今、図書館はそれらも含めた情報を編集しその入口を整えるべきだ。(12)

 

 これらの資源への自由なアクセスを実現するとともに、可能な限りその情報が二次利用可能であり活用できることも肝要だ。

 

 図書館は収集・収蔵という静的な情報観からより動的な情報観に移行する必要がある。

 

2. 情報を創造する場

 

 単に資料や情報があることに留まらず、人々がコミュニケーションしながら知り、学び、共有し、創造することが肝要であることは前述した。

 

 課題(問い)を発見し、その解決をしながら学ぶ「共に知り・創るプロセス」が常に生まれている状況をつくりたいものだ。そのためには、情報と人、人と人をつなぐコーディネーション機能と共に情報を編集し、表現し、蓄積するための空間やツールが必要となる。

 

3. 情報を扱うスキルを獲得する場

 

 上記の情報創造行為のためには、情報を収集、編集、表現、発信する技能、他者と対話し関係性を取り結ぶスキルを獲得する機会やプログラムを用意したい。

 

 より多くの人が知り、表現する愉しみを感じられる新しい知るスタイルを提案したいものだ。

 

4. 多様な主体が自ら運営する場

 

 人と人がつながり、社会的な課題(問い)を共に置き、それを解決し、共に創り出す多様な活動が自発的に生まれ広がり、あらたなプロジェクトを生むような循環が持続していくためには、サービスの提供者と享受する者に分化するのではなく、その場を利用する者が自ら運営していく開かれた仕組みが必要である。

社会の「本棚」

 

 最後にもうひとつイメージの話をする。私は図書館は社会の「本棚」であったらいいと思う。

 

 個人の本棚がその人の知的遍歴を見える化していて興味深いのは、過去の知的創造物である本たちが編集されて見える化されているからだ。

 

 図書館では書架は図書分類に則って編集(排列)されているわけだが、これが多様な人の手によって、その時々に議論されながら有機的に流動的に編集され続けるとするならば、それこそ民主主義のプロセスだといえるのではないだろうか。

 

 これからの図書館は本だけでなく、あらゆる多様な情報を、多様な人々が編集して見える化する本棚になれないだろうか。これは、ウェブの世界でも実現されていないプロセスだと思うのだがどうだろう。

 

 そのようにして、図書館が真に「公共」の場、プロセスに進化していったならすばらしいのだが。

 

(1) このようなコミュニティの視点から図書館を描き出した論を寡聞にして多くは知らない。その中で浦安市立図書館の鈴木均氏が書いた論稿には共感する。鈴木 均「公共図書館の可能性 情報提供・コミュニティ」『21世紀社会デザイン研究』2004年3号

 

http://www.rikkyo.ne.jp/~z3000268/journalsd/no3/no3_contrib-thesis7.html(2016年10月閲覧

 

(2) UNESCO Public Library Manifesto 1994(ユネスコ公共図書館宣言1994)

 

http://archive.ifla.org/VII/s8/unesco/japanese.pdf(2016年10月閲覧

 

(3) 「海辺の図書館」ウェブページ http://umibe.org(2016年10月閲覧)

 

(4) 「3.11オモイデアーカイブ」facebookページ https://www.facebook.com/sendai3.11omoide/(2016年10月閲覧

 

(5) こうした図書館が主流となる一方で、大正から昭和初頭までは、19世紀的な産業資本主義社会において、いかに生業や地域を進歩させ近代化するかという実践的な取組みも指向されてはいた。それは単に「読む」ことにとどまらず実践を通した学びの活動であり、その多くは地域の青年会が設けた私立図書館の活動が担っていた。もっともこうした教養や実践的学びが一般大衆を啓蒙し、自立した個人が現出することは、戦前の日本においては期待されることはなく、大衆は国家目標に向けて善導されるべきものであり、初等教育しか受けていない人々に対する「通俗教育」(いまでいう社会教育)を展開する場として図書館が位置づけられることはなかった。

 

長野県における当時の図書館活動については拙稿参照のこと。

 

平賀研也「伊那市立図書館の取組み:伊那谷の屋根のない博物館の屋根のある広場へ」『信州大学附属図書館研究第4号』2015年1月(http://hdl.handle.net/10091/18094

 

(6) 日本図書館協会『中小都市における公共図書館の運営』日本図書館協会、1963

 

(7 日本図書館協会『市民の図書館』増補版 日本図書館協会、1976

 

(8) 石井桃子『子どもの図書館』岩波新書、1965

 

(9)文部科学省「社会教育調査: 年次統計」e-Stat による

 

(10) たとえば、前川氏の回顧録『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房、1988)では、本と人の間に図書館員以外の個人が介在することに批判的な回想が散見される。地域の人々が貸出業務を手伝うことや、県立長野図書館長であった叶沢清介が展開した、配本所を介して地域に本を届ける母親文庫活動や、鹿児島県立図書館長であった椋鳩十がはじめた親子二十分読書運動などの取組みに対して違和感や強い懸念が表明されている。これは今の図書館員にも根強く受けつがれている価値観である。

 

(11) 「これからの図書館像-地域を支える情報拠点をめざして-」これからの図書館の在り方検討協力者会議、平成18(2006)年3月

 

http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286794/www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/04/06032701.htm(2016年10月閲覧

 

(12) MLA連携については拙稿参照のこと。

 

平賀研也「地域に立ち、学びを"知の体系"から解き放つ - “地域の知のコモンズ(共有地)"の構築とその活用の可能性」『社会教育』2014年11月号

 

 

 

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本稿はCC-BY-SA4.0にて公開


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