爪書大師伝説

牟婁の里江川浦に日高屋甚右衛門という網本がいた。ある大時化の朝、浜に出てみると異様な姿の男が打ち上げられていた。早速家に帰り、看病したので男は元気を回復した。言葉がわからなかったが、筆談の結果、男は唐人で孔太公という名前であること、寧波(ニンポウ)の港から堺へ航海する途中難破したこと、熱心な仏教徒であることがわかった。日高屋は元気になり次第、堺へ送り届けることを約束したら三拝九拝して喜んだ。

さて出発することになった時、この唐人は、命の恩人に何もお礼するものがないが父が五台山の名僧から授けられ、肌身離さず持っていた霊験あらたかなこの数珠を差し上げたいと言う。日高屋は有難く受けた。さて、その後10年ばかりは江川浦にいいことばかり続き住民は富み栄えた。人々はあの数珠を拝んだだけ触れただけでも大抵の病気が治った。江川浦は人の往来が激しくなり、商売も繁盛し、人々は華美、音曲に流れた。ところが甚右衛門がふと病床に着くようになってから、海は不漁続き、陸では不作続きでおまけに数珠の効能もなくなった。

人々が暗澹としたある夜、甚右衛門の枕元に唐人孔太公が現れて、江川の住民の振る舞いは御仏の慈悲を無にする。数珠も汚されて霊力を失った。あなたの命もそれまで。但し高野山に上り、大師の所持した数珠と擦りあわすれば霊力もあなたの命も助かる、と告げた。甚右衛門は早速、息子甚兵衛と村総代を高野山に行かせ、夢のお告げを話し頼みに頼み込んで数珠のすり合わせをしてもらった。帰りの一行は元気で塩屋のつぼ江が浦まで来た。ここが日高屋の先祖の地である。一行はここで休憩した。

甚兵衛がついうとうとしたが、どうしたはずみか首にかけていた大事な数珠がするするとはずれ、側の岩の割れ目に落ち込んでしまった。一行はびっくり仰天、何とか拾おうとしたが駄目。途方に暮れていたところへ粗衣を着た旅僧が現れたので助けを求めた。僧はあなた方は信心が足りぬ。御仏の力を知らぬ、と言い一心に念仏を始めた。

何刻かの後、念仏を止めた僧は側の岩に爪を立てて撫でた。「見よ、私の生爪が岩に御仏の姿を描いたぞ、これぞ御仏の力」と言う。人々は驚きの目を見張り、その場に平伏した。

僧は去ったが一行は仏の姿に一心に念仏を続けた。大きな地鳴りが起こった。同時に岩の裂け目が光ったと思うと、そこから玉のような清水が湧き出で、水に載って数珠が出てきた。

これが評判になって江川浦の人々と塩屋浦の人々が側堂を建てたのが爪書大師堂であると言う。

ー御坊市史より参照ー