佐分利公使変死事件(さぶりこうしへんしじけん)は、1929年(昭和4)11月29日朝に、中国から日本に帰国していた佐分利貞男公使が、滞在先の宮ノ下富士屋ホテルで変死しているのが見つかった事件(1)(2)

遺体解剖の結果、死因はピストルによる自殺と断定されたが、ピストルが佐分利の所持しているピストルではなかったこと、利き腕ではない右手で引き金を引いたとみられることなどから、松本清張は『昭和史発掘』の中で、死因は他殺だったのではないか、と推定した(2)。佐分利は、軍部や国粋主義者から「軟弱外交」のレッテルを貼られていた幣原喜重郎に近く、公使就任後は、中国国民政府との交渉が円滑に進んでいた(2)

参考資料

  1. 「年表」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、148-151頁
  2. 播摩晃一「佐分利公使自殺の謎」同書74-75頁