大切なのは各自が役割を理解すること
 

混乱の中、受入態勢を必死に整備

 

 

夕方5時。陽は既に落ち、信号も無い真っ暗な夜道を車のヘッドライトだけが数台往来している。人々の息吹が全く感じられないこの地域に、9ヶ月前まで沢山の人々が生活をしていたとは想像できなかった。この暗い夜道を進んだ小高い城山の麓に「社会福祉法人大槌町社会福祉協議会」の仮設事務所がある。そこで業務課長の多田左衛子さんと総務係長の川端伸哉さんにお会いした。

 

 

 

 

震災発生時、多田さんは隣町の釜石市にいた。一緒にいた職員と大槌町の事務所に戻ってきた。津波が来る直前、近くの4階建ての開業医院に避難した。屋上から津波が押し寄せて町を飲み込んでいく様を目の当たりにした。そのまま一晩過ごし、翌日、自衛隊のヘリコプターで救助された。極寒の中、救助を待っていた。隣の3階建ての建物に避難した人たちは、身体を濡らしたうえ屋上ですごしていた。それを思うと辛かった。「私達は屋上まで逃げられました。衣服を濡らさずにすんだ上に建物の中に入れた。お隣よりずっといい状態だったんです」と当時を振り返る。

 

業務課長の多田左衛子(左)と総務係長の川端伸哉さん

 

 

一方、川端さんはデイサービス利用者の応対をしていた。震災発生後、避難マニュアルに則り、直ぐに高台の福祉施設へ利用者を避難させた。「でも本当に津波が来るとは思っていなかった」。夕方になって山道を辿って街を一望できる所を目指した。倒木が道を塞いでいたので、皆で協力して撤去しながら何とか前進した。途中で大槌町役場の人が自転車でやって来て「街、無くなったぞ」と言った。実際、津波と火災で大槌町は壊滅していた。「城山に逃れた人以外は皆亡くなったのでは」と思った。

 

多田さんのいない協議会内部では、家族の安否確認に行くべきという意見と、利用者がいるので行けないという意見の真二つに分かれ、もめにもめた。家族の安否確認が出来ないことには仕事が出来ないと、川端さんは震災後1週間、仕事を休んで、避難している20代から30代の若者を集め、自転車のライトを明かりにパトロールを始めた。今となっては笑い話だが、パトロールをしていた際、同様の取り組みをしている別の避難所の人に遭遇し「こんな夜中に何やっているんだ」と詰問されたそうだ。

多田さんは、震災発生後「何をしたら良いのか分からなかった」と言う。先行き不透明の中、給料が出るのか出ないのかわからず、辞める人もいれば、そのまま残る人もいた。生活が最優先。辞めていった方を非難出来ない。その後、大槌町に駆けつけて来た全国社会福祉協議会の支援プロジェクトの人たちの協力で、3月26日にボランティアセンターを立ち上げることができた。「これは大変なことになる。受け入れる態勢がないと沢山の人が来てくれてもどうにもならない」。川端さんは、大槌町社会福祉協議会会長(当時会長職務代理者)の指示で全国から入って来た様々なボランティアの受け入れを取り仕切るようになった。行政とボランティア団体やボランティア団体同士のトラブルは絶えなかった。「継続的に活動を続けてくれた団体とは、もめたとしても気心が知れてうまくまわるようになったんですよ」。

お二人が特に重視したのは、物でもお金でも無く、「役割づくり」だった。復興という1つの大きな目的に向かって邁進していく。それには各自が「役割」を理解すること、その方向を導き出すことが大事であるという。時おり笑顔を見せる二人。逆境に立たされたとき、人は強くなれるのか。社協のプレハブを出ると、真っ暗で寒風が吹いていた。

 

(取材日:2011年12月7日 ネットアクション事務局 多田眞浩)

 

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