全町避難を経験して(福島県大熊町)
東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機が立地する福島県双葉郡大熊町。東日本大震災による原子力災害の影響で現在も町全域が警戒区域のまま、全町民が避難を余儀なくされている。その大熊町で災害対策本部生活環境課長を務める石田仁(いしだ じん)氏に当時のお話を伺った。
3月11日14:46、東日本大震災発生。通常の震災対応を行い、15:00過ぎには災害対策本部を設置。2台の広報車と防災無線を用いて町民に津波警報を伝えた。
3月11日15:40頃、津波の第一波が町の沿岸部を襲った。
3月11日16:00過ぎ、余震が続く中、国道6号線より東側の、海に近い海抜の低い地域に避難を指示。大熊町総合スポーツセンターの体育館やグラウンドに約2,000 名が避難した。
「この間、ずっと原子炉がどうなっているか心配だった」と石田さんはいう。福島第一原子力発電所と町を繋ぐホットライン(直通電話回線)は新しいデジタル式に交換していたが、通じなかった。福島第二原子力発電所とのホットラインは手回し充電式だったため、停電でも利用でき、当初は第二原発経由で連絡を取っていた。原子炉について、制御棒が入り緊急停止したとの確認はとれた。
3月11日16:00過ぎ、津波による10条通報(原子力災害対策特別措置法第10条による特定事象が発生した場合の通報)を受ける。オフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)へ町の連絡担当者を派遣。しかし、現地も混乱を極めていた。第一原子力発電所では全電源喪失という事態が起こっていた。
3月11日17:00過ぎ、非常用炉心冷却装置注水不能のため、さらに15条通報(緊急事態判断)が入る。
3月11日19:00過ぎ、原子力発電所緊急事態宣言が出された。
3月11日20:00過ぎ、町役場を訪れた東京電力の連絡員2名から「21:00過ぎに3km圏内避難、10km圏内屋内退避の指示が出る」との連絡を受けた。
21:30過ぎ、3km圏内避難指示が出された。あわせて国土交通省から「大熊町役場に避難用のバス70台を送る」との連絡があったが、全く状況が掴めず「国道6号より東の高度の低い地域は既に避難が完了しているのになぜ、という思いだった」。避難していなかった高台の地域の住民を大熊中学校や保健センターに避難させた。午前0時前に避難は完了した。
23:00過ぎ、県の幹部や東京電力の原子力本部長が町役場に挨拶に訪れたが、心配いらないという話があり、それで石田さん達は津波の不明者の捜索準備に当たっていたという。
3月12日5:30頃、警察官が町民の避難誘導をしているとの連絡を受けた。双葉警察署の署員に確認すると「10km圏内避難指示が出た」とのことだった。その後、町長宛に首相補佐官から避難してほしいとの連絡が入った。
3月12日7:00過ぎ、前日から避難していた体育館よりバスや自家用車で避難を開始した。行き先の情報も混乱し、バスは田村市、警察の誘導した車両は川内村方面と分かれてしまった。バスの往復による避難を繰り返し、14:00過ぎに最終のバスが出た。その後も石田さんを含む町職員6名が役場に残った。
3月12日15:00過ぎ、東京電力から「発電所の状況がおかしい。逃げてくれ」との連絡が入る。
職員も避難するため、ちょうど役場の鍵をかけて出ようとしたところ、第一原発1 号機建屋の水素爆発が起こった。
3月12日19:00過ぎ、避難指示が20km圏内に拡大され、田村市都路行政区も対象区域に入り、そこに避難した住民は再度の避難を開始した。避難所を探しながら深夜も走り続け、夜中の2:00過ぎに郡山市などに到着した。
4月初旬、会津若松市に全町避難し、会津若松市役所追手門第二庁舎内に大熊町会津若松出張所を設置した。
町役場はオフサイトセンターまで400m足らず。地震で防災用具も取り出せない。取り出せたとしても町民の分はない。自分たちだけ付けるわけにはいかなかった。マスクも何の防御もしないまま避難誘導に当たった。爆発の瞬間「頭が真っ白になった」。避難先で放射能の濃度が上がっていたことを知ったという。
「情報の問題がある」と石田さんはいう。ホットラインの寸断やFAXで来る情報の遅延、関係機関間での状況認識の齟齬など発生直後の問題に加え、避難所や仮設住宅等で生活を始めた段階でも、災害対策本部と避難所・仮設住宅等との情報共有にも問題があった。「現状の災害対策は、短期間の避難のみ想定しており、長期の避難が想定されていない。考え直す必要がある」と話す。
特に原子力災害に関しては、情報開示の問題も指摘する。その時必要な情報が手に入らない。国内の機関や報道発表だけでは必要な情報が入手できないため、インターネットで海外のデータ等を調査することもあった。後から新しい事実が分かり「あの時、もしかして、退避したことで住民も被曝してしまったのでは…」などと分析し直す。「即時的な正しい情報の開示」が的確な避難に限らず、被災者の安心のためにも必要だと話す。
「住民の生命と財産を守ることが町職員の使命」と石田さんはいう。
これまで地縁で生きてきた大熊町。それがバラバラになってしまったことに、言いようのない悔しさを感じる。
それでも、会津若松市をはじめ、日本全国・世界からの支援を受け、人の温かさも感じている。「会津若松市さんには本当によくしてもらっている。感謝の言葉しかない」と話す。「クリスマスのイベントで、サンタさんを演じたら、子供の表情が全てを忘れてパッと花が開いたように笑顔になりました。そんなひとつひとつの笑顔に救われています」
大熊町は平成23年10月に復興構想(案)を策定した。現在、町民も参加する大熊町復興計画検討委員会を開きながら、復興計画の策定を進めている。
「津波の被害に遭われた方々に比べれば、私たちは命はある」
「将来の世代のために、戻れる‘ふるさと’をつくることが大人の務め」
「ただ前に行くしかない」
と石田さんはいう。
(取材日:2012年3月16日 ネットアクション事務局 田渕雪子・森崎千雅)
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