アイヌ神謡集 について知っていることをぜひ教えてください

1923年(大正12年)出版「アイヌ神謡集」知里幸惠編訳の序分の最後に「アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.大正十一年三月一日」と幸恵のメッセージがあります。

彼女は祖母モナシノウクや叔母のイメカヌ(金成マツ:かんなりまつ、叔父のカンナリキから苗字を取るから聞いたユカラをアイヌ語の発音をローマ字で書き残し、また日本語に翻訳しました。

幸恵は1903年(明治36年)6月8日、室蘭の隣の登別本町2丁目の登別川沿いで生まれます。1922年(大正11年)9月18日に19歳亡くなっているので、この序文を亡くなる半年前に書き上げ、5月に東京に行きます。明治の末期から、大正時代を生き、東京の金田一京助の文京区西片町の自宅に住まい、翻訳作業を終えたその日に息を引き取りました。金田一の自宅跡はルーテル教会となり、熱心なキリスト教信者だった幸恵を偲ぶ会合が現在でも開かれています。伯母のイメカヌはユカラのローマ字の記述を亡くした姪から引き継ぎ「金成マツノート」という膨大な記録を残しました。未だ半分は日本語に翻訳されていないそうです。

イメカヌの従兄弟の金成太郎は室蘭常盤小学校に通い、ジョン・バチェラーにアイヌ語を教える中でアイヌで初めて洗礼を受けることになります。1885年(明治18年)バチェラーが創設した函館の愛隣学校の校長になりイメカヌと妹のナミ(幸恵の母親)もその生徒でありました。

19歳の少女はアイヌの神話やその精神世界と、キリスト教的な考え方、道徳観、失われてゆくアイヌ文化への焦り、そして、急激に変わってゆく明治後半の室蘭の街と生まれ育った登別川の風景、関東大震災の前の東京、東京大学周辺の街並み、都内の教会の風景がありました。

知里幸恵 銀のしずく記念館