町村家の愛情の中にいた仙太郎

宇都宮仙太郎は、大分の出身。同郷の福沢諭吉を頼り慶応の中等部に入学する。「自分の活動の場所は酪農」と志す。日本人の身体を立派にするために牧畜を学び、実践したいという思いを持って北海道に向かう。
そのとき、エドウィン・ダンが札幌市、現在の真駒内駐屯地から、記念館までを含む100ヘクタールの農場を開いていた。管理していたのは町村金彌だった。金彌は仙太郎を一目見るなり「その体じゃ酪農は無理だと」入場を断った。諦めきれず、現在の市営地下鉄「自衛隊前」駅のあたりとされる旧定山渓鉄道の「真駒内」駅がある農場の出口に向かってもたもたと歩くには歩いていたという。

足の進まない仙太郎をみた金彌の妻、そとがとりなしたという説があり、仙太郎は事務所に連れ戻される。「出面の募集係ならできるだろう」と金彌は応じた。そとは「この人には将来がある」と仙太郎を大切にして、十分に食べさせ、家族のように仕事と勉学を応援したという。19歳の仙太郎は働きながら、心も、頭脳も、そして体も成長していったと伝わっている。金彌の長男の敬貴(ひろたか)は両親が愛情をかけた10歳年上の青年仙太郎を兄のように慕っていたという。

 

仙太郎の働きぶりに憧れを持った敬貴

仙太郎は真駒内の農場で働いた後にアメリカに留学し、バターなどの乳製品の製造技術を磨いて帰ってくる。帰るなりまた、金彌を手伝った。その後、札幌の街中で民間で初めてバターを製造して販売を始めた。知事公館の近くだと伝わる。敬貴はこの時期もよく仙太郎を訪ね、彼の知識や生き方を吸収していたという。

 

未曾有の窮地に農民自らが立ち上がって雪印が生まれたとき、仙太郎はその中心にいた

大正12年9月、関東大震災が発生し、日本経済は多大な打撃を受ける。物資欠乏と価格の暴騰に備えるため、政府は乳製品輸入関税を撤廃。練乳や脱脂粉乳、バターが外国より大量に流入した。更に、練乳の売り上げ不振により練乳会社の原料乳の買取拒否などが起こる。練乳を製造して遠隔地に販売の活路を拓いていた北海道の酪農民はまたたく間に窮地に追い込まれていく。『まさに農民の死活問題であり、このままでは北海道開拓の中心となる寒地酪農も挫折する。どうしても農民による、農民のための生産組織を』という宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵、佐藤善七らの呼びかけに、零細な酪農民たちが立ち上がった。雪印「創立前夜」のページより

宇都宮仙太郎顕彰会

 

「このままでは北海道開拓の中心となる寒地酪農も挫折する」

仙太郎たちと零細酪農家たちの取り組みが、現在の北海道の農業構造を作ったとも言える。北海道の酪農は単に生乳の生産額にどどまらず、北海道の乳製品のイメージは、製菓も含めた食品のイメージを作り上げ、観光による経済振興の根本的な要素となった。以下の資料は生乳の出荷額が、現在の北海道農業の中で大きな位置を占めていることを示している。


 

【出典】都道府県単位 https://resas.go.jp/agriculture-all/#/portfolio/5.333900736553437/41.42090017812787/142.29371418128918/1/01100/0/2016/1/-/

農林水産省「都道府県別農業産出額及び生産農業所得」
市区町村単位
農林水産省「市町村別農業産出額(推計)」【注記】「その他の畜産物」には、農林水産省「都道府県別農業産出額及び生産農業所得」及び「市町村別農業産出額(推計)」で示される「鶏」から「鶏卵」と「ブロイラー」を減じた値を含む。
合算機能において秘匿値が含まれる地域を合算した場合、当該地域の数値は合算結果に反映されない。

 

秋から春までは大学に行って勉強して来い

仙太郎の学びの系譜をたどるように、渡米した敬貴。敬貴の働いたラスト牧場の農場主は「夏はおれのところで働けばいいから、秋から春までは大学に行って勉強して来い」と言って、彼に学費を出したという。彼が牧場のためにとても真面目に働いたことが起こしたエピソードが伝えられている。「町村敬貴伝」pp.66より

町村敬貴ーウィキペディア

町村敬貴の発言

 

町村金彌に師事して、のちに雪印を生み出し、町村農場にも大きな影響を与えた宇都宮仙太郎と江別対雁で町村農場を創業した金彌の長男、町村敬貴についてご存知のことがあったら、ご記入お願いします。