根木名川を歩く について知っていることをぜひ教えてください

川沿いに水田と森、そして神々の社を眺める旅。

根木名川(ねこながわ)を遡って歩いて行くと、水源の旧岩﨑家末廣別邸や富里市役所にたどり着く奥深い谷津(やつ)。京成とJRの成田駅のすぐ近くを川が流れ、成田山新勝寺の袂を通って利根川に注ぐ。

谷津について
北総のなだらかで奥の深い谷と解説する中央学院高等学校の生物部

 

舟運を思いながら上流の谷津を旅してみる

日吉台1丁目の交差点近く、富里市のゲストハウスのAzureから出発して、すぐに川面にたどり着いた。
 

2015.10.17 富里のすべての神々の縁日。新しい御幣で神を祀る


途中、川面からは数メートル高いところにある集落の中を歩きたくなった。引き寄せられるように石碑を見ると、水害と日照りからこの地を守る話が書かれている。谷津の縁は「ヤマ」と呼ばれている。杉や檜、広葉樹、竹などが鬱蒼と茂り、急な斜面を守っている。川面より少し高いところに水田。水田より高いあぜ道からさらに上がって道。その上に家が建つ。水田は少し遠くなるけど水害には合わない高さなのではないか。氾濫原が全て水田となり、洪水を吸収する。写真は「大和地区の氏神祭り。各家の氏神様に新しい幣束を供え、新しい藁で屋根を葺き替えて、甘酒と赤飯を作り供えて食べる」という。この白い紙できた幣束(へいそく)は後ろに鼠色になって朽ちた古い幣束を従えて美しくあった。富里の10月17日は「市内の神社全ての縁日で、小さな神様も大切に祀られる」そうだ。この近くに弘法大師の祠があり、その祠には湧き水がつきものだという。

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朝陽を浴びて、輝く川、刈り取りの終わった水田、朝露のエノコログサやチカラシバ。谷津の中ほどを流れる根木名川。護岸がなされていないので、生き物のがたくさんいるようだ。時々大きな鯉が跳ねる。

 

 

遡って行くと延々と水田が続く。現在より気温が高く、縄文時代前期の約6,000年前あたりに今よりも水面をあげた海が、底が平らで縁崖が急で懐の深い谷津の地形を作った。旧岩﨑家末廣別邸や富里市役所に端を発する泉。深山ではなく、人の暮らしのある関東ローム層と数万年前に海底が隆起した台地に刻まれた谷津の崖の腹から水が湧いている。この水は米を育て、作った米を運ぶのにも使われた。海のものを台地に運ぶにも使われただろうか。江戸期にはこの川を通り、年貢米が利根川に集められたのだろうか。成田山からもなにか運ばれただろうか。富里の平らな谷底は今も水のすぐ横を歩くことができる。谷津の始まりに別邸を建てた岩﨑久彌は、川の生まれる崖上に立ち、どんな気持ちで富里の農地の眺めていたのか知りたくなった。地元の人は、大地の上を「ダイ」と呼ぶ。谷津、山、台。ここでは、山の上に台がある。
 

富里の水田は八月の中旬から稲刈りが始まる。「全国一の早場米」と千葉県庁は胸を張る。稲刈りの後も生きた株から稈と葉が伸びて数十センチ。新しい稲穂まで生まれ、相良初夏の水田のような風景だ。狭小な谷津を切り開き、水田とするにはどれだけの歳月を要しただろう。水田開墾の入植は平安期に記述があるようだ。

 


 

最上流は休耕田になり、谷津は狭くなり、深さが際立つ。車の入らない道となったあとも谷津は続き水は澄んで行く。別邸が近くなると谷津の底は標高25メートルぐらいまであがる。40メートルを超える大地の上部まで、標高差15メートルの崖だ。この道は小学生達の通学路だ。

根木名川谷津の最上流に近づき、水田は休耕田に

 

根木名川谷津の朝靄を台の上から見下ろす 撮影:モモンガ