三ノ丸(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • 二ノ丸につながる主要な曲輪であったことに由来する。

  • 藩政期には、大手門から搦手門まで藩主一族の御殿、家老屋敷、普請小屋、役所などが置かれていた。また、進徳館もおかれた。

  • 家老屋敷には桜の老大木があったとされる。

  • 普請小屋付近には西龍寺があったとも伝えられる。

  • 保科氏が藩主であった頃の絵図には、山本勘助屋敷の記載があったとされる。

  • 神戸(かんべ)屋敷と呼ばれる家老の屋敷の跡が残っている。高遠高校があった頃、この屋敷跡の地塁に国旗掲揚台が設置されていた。

  • 北斜面には犬走と呼ばれる井筋状の小段がめぐっている。

  • 昭和23年(1948)から昭和59年(1984)まで高遠高校の校舎が設置されていた。この頃は高校周辺を進徳台と呼んでいた。

 

 

練積の石積

 

進徳館前の石積

進徳館の裏手

 

【木の下蔭】
三の丸堀東北の方に窪みたる所あり鳥居家の時分小姓と坊主不義の事ありて此所へ埋められし跡といふ實否を知らず
三の丸家老屋敷の内に幹五抱餘り枝は拾間に過ぎて蔓り百とせをもこゆる櫻木あり花のころは色香妙にして文人筆を擲つおしむらくはしるべき故なき事をされども又かほどの一木を無下に書き洩さんも本意なく筆をたつるのみ
おなじ並びの普請小屋は西龍寺の舊地と俗に云ひ傳ふ其證慥ならず保科家の頃の古繪圖には山本勘助屋敷とあり思ふに勘助當城普請の頃暫く在住せしにや