流したい情報はたくさんあります

 

「体と心は一体なので、話すことは体の癒しにもなるんですよ」。

 

生まれも育ちも大船渡で、妻とともに大船渡で整体治療院を経営している佐藤健さんはそう語る。10年前に開院し、述べ2万人の体と心のケアをしてきた。

 

3月11日、佐藤さんは治療院で患者を待っている時に地震に遭遇した。院は海岸から100メートルと離れていない。津波が来ることを確信した佐藤さんは急いで車を取りに行き、奥様とともに娘さんが通う学校へ逃げた。

 

自治会のリーダーが取り仕切るなど、昔からのコミュニティが機能していたが、情報がなく、避難所は完全に孤立していた。「電気も無く、泣き出したくなるくらい真っ暗でした。そして、みんな家が無くなってしまったということを薄々感じていました」。頼りは避難所に来ていた消防車の無線や口コミの情報だった。NHKラジオを聞いている人がいたけれど、地震速報や岩手県全域の状況はわかるものの、地元の情報は少ない。また、次第に原発報道の割合が増えていったため、あまり役に立たなかったという。ガソリンも不足する中、身内の安否確認をしたい人々が歩いて危ないところへ探しに行っていたそうだ。

 

携帯電話の復旧には10日、固定電話の復旧には2週間ほどかかった。携帯は、移動型のアンテナ基地局が設置されたが、特定の場所へ行かないと使えなかった。そのため「乾電池や車、船舶用のバッテリーで充電し、とりあえず握りしめていました」という。そして「つながった途端にたくさんメールが来ました。でも声を聞かないと安否は信頼できないという気持ちもありました」と当時の心情を話してくださった。

 

そんな佐藤さんと奥様に人づてで声が掛かり、市役所が立ち上げるラジオ局「おおふなとさいがいFM」に参加することとなった。といっても佐藤さんと奥様と大学生1人の3人から成るスタッフは全員が素人。奥州FMの助けを借りながら、市役所の一角に設けられたスタジオに機材を設置し、ジングルやCDを用意して、3月31日に放送がスタートした。話が持ち上がってから開局まで3日間の突貫工事だった。

 

8時、11時、14時、17時の1日4回放送される1回2時間の番組では、給水や入浴、炊き出しについての情報や、市が毎日開いている記者会見の発表資料、大船渡・気仙地区の新聞からピックアップした情報などを読み上げた。番組の時間をオーバーすることも多かったという。「ニュースの内容とかける音楽のバランス、言葉遣いやトーンにはデリケートになりました。自分も被災者なので聞き手の気持ちがよく分かりますから、淡々と読むようにしていました」。

 

2ヶ月、3ヶ月と時間が経つとともに、お店の再開やイベントの開催についての情報が集まるようになった。税務や暮らしの相談、融資の案内などのお知らせも増えていったという。「市役所が設置した放送局であるため、自由に何でも放送できるという訳ではありませんが、流すべき情報はたくさんあります」。

 

被災地の災害FM局は、地域によって行政との関係や経験者の有無などの状況が違うため、それぞれ運営方法がかなり異なっているという。佐藤さんは「情報の種類や質は、地域によってかなり違いが出てしまっています。災害ラジオ局用の雛形やルールがほしいですね」と課題を指摘している。

 

佐藤さんは今後も、放送局の活動が継続発展していくように力を尽くしていきたいと考えている。またその一方で、本業の整体治療も、仮設店舗の中で再開した。佐藤さんによる大船渡の皆さんへの心と体のケアは続いていく。

 

(取材日:2012年1月21日 ネットアクション事務局 庄司昌彦)

 

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