丹那トンネル(たんなトンネル、1934年 - )は、JR東海道線熱海函南間にあるトンネル

沿革

1889年(明治22)7月に開通した東海道本線は、国府津から松田山北御殿場を経由して沼津に至る路線を採用していた(2)。この路線は、御殿場まで25/1000勾配の箇所が19kmあり、その後、急勾配を下ることになるため、運行上の負担が大きかった(2)。そこで最高勾配を10/1000に出来る、小田原から熱海を通って、伊豆半島北部山地を東西に掘削するトンネルで三島・沼津に通じる路線が計画された(2)

1909年(明治42)、丹那トンネル開通計画がたてられ、鉄道院総裁の後藤新平が測量を指示した(2)

1918年(大正7)、770万円の経費、7年の工期を予定して、熱海側と三島側の両方から工事が開始された(2)

1921年(大正10)、約1,340m掘り進んだときに、坑口から303mの地点が崩壊し、坑夫48人が生き埋めになった(2)。182時間後に32人が救助されたが、16人が死亡した(2)

1924年(大正13)、大竹口(三島側の坑口)の坑内で落盤事故が起き、毎秒128トンの湧水が坑内から出て、取り残された16人が溺死した(2)。工事への批判は多く、変更を求める意見もあったが、工事は計画どおり進められた(2)

1934年(昭和9)12月に熱海-函南間の7,804mが開通した(1)(2)。坑道の断面は高さ6.8m、幅8.5m(2)。結果的に、経費2,600万円、工期16年を要した(2)

丹那トンネルの開通により、熱海線が東海道本線となり、国府津-御殿場-沼津間は御殿場線に改称した(1)。走行距離は国府津-御殿場-沼津間の60.7kmから、国府津-熱海-沼津間の48.6kmに短縮された(2)

新丹那トンネル

国鉄は、東京-下関を結ぶ「弾丸列車」の計画を立て、1941年(昭和16)の着工を予定していたが、太平洋戦争の勃発で工事は中止された(2)。戦後、東海道新幹線の工事が再開され、1964年(昭和39)に延長7,959mで複線の新丹那トンネルが開通した(2)

参考資料

  1. 「年表」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、148-151頁
  2. 飯田耀子「丹那トンネルの開通」同書80-81頁

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