法憧院曲輪(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • 桂泉院が現在の位置に移る前は法憧院曲輪にあり、法堂院と言われていたことに由来すると考えられている。院曲輪法童院曲輪の表記も見られる。諏訪神社法憧院曲輪にあったが、桂泉院と同時期に現在地に移転したとされる。
  • 昭和初期に廣瀬省三郎が買収し公園として寄付したため廣瀬公園とも呼ばれた。また、高遠城址公園に新しく付属する公園という意味で新公園とも呼ばれた。
  • 昭和9年(1934)に廣瀬省三郎が建てた石碑がある。中村不折の「嶽色江聲」の揮毫のもと、廣瀬奇璧(省三郎の俳号)の「斑雪(はだれ) 高嶺(たかね) 朝光(あさかげ) 鶯 啼いて居」と、奇壁と交友のあった河東碧梧桐の「西駒は斑雪てし尾を肌脱ぐ雲を」の自由律俳句が刻まれている。廣瀬省三郎は公園の北方から碑となる高遠石を手配し、日影の斜面を引き上げ、広小路を経て、三ノ丸の外堀の外縁(東縁)に沿って運搬し、法憧院曲輪に据えたとされている。また、河東碧梧桐は実際には高遠へは訪れておらず、高遠から撮影された風景写真によりこの句を詠んだと言われる。(2023/01/09修正)碧梧桐が関係する俳誌「三昧」26号(昭和2年4月発行)によれば、昭和2年(1927)3月、関口比呂志の招きで「信州の旅に立ち」、伊那町、高遠町、非持の関口宅、高遠小学校に訪れ、句会や講演会を行った。
  • 法憧院曲輪の桜は、昭和23年3月(1948)頃に植えられた。当時の高遠町長であった伊東虎雄からの依頼で東高遠青年会が請け負い、12人による2時間の作業で、二ノ丸の苗圃から40本ほどの苗を移植した。桜が植樹される前は麦畑であった。
  • 昭和33年(1958)には、松井芒人の「仙丈の高根にいでて冬の日は天つみ空にかがやきにけり」の歌碑が建てられた。
  • 平成4年(1992)、曲輪の南側に信州高遠美術館が開館した。
  • 平成28年(2016)に信州高遠美術館の南東にあった巽櫓と呼ばれる建物が解体された。

 

12月の法憧院曲輪

松井芒人の歌碑

嶽色江聲の碑

 

【木の下蔭】
法堂院郭は今の桂泉院の舊地なりよつて龍澤山の部にしるす