イギリスから遠路航海して来たブロートン艦長は、200年以上前(1796年)に白鳥湾を探検・測量しました。

内浦湾を「噴火湾」と名付けたのもブロートンだと言われています。

彼はその探検航海を、航海紀として著し、白鳥湾のものと思われる地図も残しています。

ブロートン地図1796年 1890年(明治23)の北海道実測切図

 

水深を測量した数値が書き込まれており、その部分が海だと分かります。どうやら、中世のヨーロッパでは、東を上にして地図を描く習慣があったそうなので、明治時代の室蘭地図を東を上にしてならべてみました。現在の白鳥湾は、多くの部分が埋立地となっており、まったく形が違うのはわかりますが、それにしても大黒島と思われる島の位置も随分ずれているように見えます。しかし、大体の概略は合っているようにも見えます。

 

マンチェスターの丘に登って白鳥湾を眺めてみることにしました。

ちなみに、マンチェスターの丘というのは、イタンキの上の丘につけられた「あだ名」です。英国マンチェスターにある丘にそっくりだからだそうです。マンチェスター(Manchester)の語源はケルト語の「乳房のような」という意味だと言われています。言われてみればmom(ママ)+ chest(胸)--> マンチェスターなのかもしれませんね。

こう思い始めると、乳房に見えてしまいます。

 

ブロートン艦長の航海紀によると、現地人(アイヌ人)や日本人に場所を教えられて、水や薪を補給しています。ブロートン艦長の記述は、航海日誌らしく淡々としたものですが、水の補給は彼らの死活問題だったようです。アイヌの残したユーカラには、「追い返そうとしたが、涙を流して懇願するので、水と薪の補給を許した」と残されています。

18世紀の後半でも、北太平洋は探検の必要な未知の世界だったのです。白鳥湾の測量も命がけの仕事だったのでしょうね。「日の沈まない帝国」として知られる大英帝国も、大航海時代としては後発だったらしく、交易地の開拓という意味も濃かったかもしれません。

日露戦争のあと、英国は日英同盟の強化に動き、1907年には北海道炭鉱汽船とアームストロング社の合弁で日本製鋼所が創設されており、歴史のつながりを感じます。