玉伝寺 入り口玉伝寺(ぎょくでんじ)、光浄山三宝院は、城山4丁目にある仏教単立寺院(7)。本尊は三宝四菩薩、諸尊および祖師(1)(或いは宝塔・釈迦牟尼仏・多宝如来(6))。大永2年(1522)の創建で、開基は外郎家の祖・宇野定治(弘治2年・1556没)、開山は日伝(天文17年・1548没)(1)(6)。外郎家の菩提寺(6)。江戸時代には身延・久遠寺の末寺で、米神日迢寺の本寺だった(1)

沿革

大永2年(1522)に欄干橋(本町)・外郎鉄丸の祖・宇野藤右衛門定治(法名:実如院蓮真。弘治2年(1556)11月24日没)が建立し、身延13世・宝聚院日伝(天文17年・1548没)を招いて開山とした(1)(6)

もとは早川口の辺りにあったが、寛永14年(1637)に稲葉美濃守正則が城山の土地を寄進し、移転した。正則の寄進状が所蔵されていた。またこのとき、稲葉氏の臣・田辺権太夫信吉(寛永15年(1638)11月13日没)が堂宇を建立した。(1)

移転後の寺地は、後北条氏の時代に倉廩(穀物倉庫)があったところといわれていた(1)。『風土記稿』は、『大三川志』に、天正18年(1590)の小田原合戦の頃、豊臣秀吉が小田原の兵粮米数十倉を徳川家康に贈ったという逸話があることを指摘し、その倉庫の跡ではないか、と推測している(1)

(『大三川志』より)天正十八年(1590)七月十四日、是より先き、秀吉、小田原の粮米数十倉を神祖(家康)へ贈る。神祖、伊奈熊蔵忠政をして其粮米を監し、領受せしむ。

 

忠政、秀吉の監使に会して是を告ぐ。監使、倉廩を開き、悉く其俵数を改め授んとす。忠政が曰、「軍事既に終ると雖ども、未繁多なれば、日を費し事を妨んこと不可也」とて、諸倉の戸に印封をなし、唯倉廩の数を改て是を受く。因て一日にして終る。

 

監使、江戸に到て秀吉に達す。秀吉、其授受の速なるを疑ふ。監使、「忠政が干戈の際、日を費すの不可なるを以て、印封を為て授んことを議す、因て是に従ふ」と云ふ。秀吉、席を拍て大に嘆ず。(一部、読点を句点に改め、読点を補った)

中興は僧・院乗院日運(元禄5年・1692没)(1)

什宝

祖師像

祖師像(日蓮上人像)は下総中山・法華経寺の開山・日常の作で、像高は1尺2寸(約36.4cm)あった(1)。1970年以前に、国定教科書に掲載されていたことがあった(6)

その他の仏像

七面天女像、鬼子母神像があった(6)

古文書

古文書3通を所蔵していた。

  1. 制札
    禁制、於寺内竹木草花剪取事、旅人宿之事、諸人狼藉之事、付弓鉄炮に而鳥打事、右於違犯之輩者、可遂披露者也、仍而如件、天正十六年戊子(1588)十二月十九日、玉伝寺山角孫十郎奉之、[虎朱印]、
  2. 制札

    禁制、右軍勢甲乙人等、於屋敷之内、或家を破、或道具を取、狼藉之族有之者、可致披露、可処厳科候、家御用之時者、従大途可被仰出者也、仍而如件、(年不詳)卯月廿日、玉伝寺山角治部大輔奉之、[虎朱印]、

  3. 奉書
    西殿御宿被仰付候、敷物已下自前々座序に有之分をば、無相違可被走廻者也、仍而如件、(年不詳)卯十月十二日、玉伝寺、石巻奉、[朱印あり]、

境内

玉伝寺 境内1970年当時、境内は470坪(約39.4m四方)、建物は本堂23坪(約8.7m四方)、庫裡(6)

鐘楼

境内の鐘楼の鐘は、寛永18年(1641)3月の鋳造だった(1)

七面社

番神大黒天および加藤清正の木像が合わせて祀ってあった(1)

疱瘡神石祠

稲荷石祠

子院・玉林坊廃跡

寺紋

寺紋は九曜の周りに八葉の花が二重になった紋(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 神奈川県ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化・芸術 > 宗教法人 > 宗教法人について > 神奈川県知事所轄の宗教法人 > 宗教法人名簿(令和3年1月1日現在) > その他1 宗教法人名簿(PDF:708KB)
  3. 玉伝寺文書」石野瑛(編)『小田原及箱根史料』〈武相叢書第4編〉武相考古会、1932・昭和7、pp.35-36
  4. 『日蓮宗寺院名簿』日宗新報社、1914、p.27
  5. 西村慈珖『日蓮宗大観』日蓮宗大観刊行会、1918、p.161
  6. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.423
  7. 『風土記稿』には「法華宗」とあり、1914年の『日蓮宗寺院名簿』(4)や1918年の西村慈珖『日蓮宗大観』(5)には日蓮宗の寺院としてみえる。1970年の『全国寺院名鑑』(6)と2021年1月1日現在の神奈川県の宗教法人名簿(2)では、仏教系単立の寺院とされている。