観音屋敷(かんのんやしき)は、『風土記稿』の頃(19世紀前半)、千代大乗院の近くに残っていた字。飯泉観音の旧跡という。また近隣の田畑の字に、「弥勒畑」「八幡畑」「堂ノ脇」「塔ノ腰」「堂ノ後」などがあり、いずれも当時の名残りとされている。(1)

『坂東霊場記』の飯泉観音の条に、弓削道鏡が流罪になり下野国へ向かう途中、千代の里を通りがかったとき、笈仏(厨子に入れて背負っていた仏像)が急に重くなって進めなくなり、道鏡が、この地に因縁があるのか観音像に問うて念じたところ、像は並木の梢に飛び移って光を放った。そこで村人がこの仏を仰いで、竹木を持ち寄って草堂を建てて仏像を安置したのが始まりで、飯泉へ移ったのは天長7年(830)、と記されている。(1)(2)

『風土記稿』は、走湯山文書に「暦応四年(1341)十二月、走湯山領千葉郷内観音免」とみえ、「千葉郷」は千代にあたることから、この頃まで飯泉観音は千代にあり、天長に移転したとすると年代がかなり古く、旧跡が現存している理由がないので、飯泉へ移ったのは暦応以降、としている。(1)

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 亮盛『坂東三十三所観音霊場記』巻2 コマ12-17、明和8年(1771)刊、国立公文書館 内閣文庫蔵本