早稲田大学校歌のトリビア (13)誤報と虚報 について知っていることをぜひ教えてください

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/09/19の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


つくられてから100年余にわたり数え切れない人々に歌われ、親しまれた、という結果から逆算して、これほどの素晴らしい校歌が生まれるときには関係者のさぞかし大変な苦労や工夫、感動的なエピソードがあったことだろう、そうに違いない…と思いたくなってしまうところに、実は落とし穴があります。早稲田大学校歌にまつわる「美談」「奇談」のいくつかを検証してみましょう。

 

校歌の3番は、三木露風が書いた

2007年の本学創立125周年・校歌誕生100周年を記念して、第一回校歌シンポジウムが稲門祭の一行事として開催された際、終了後に声をかけて下さった校友の方が何人かおられて、その中に戦前のグリークラブ(当時は音楽協会合唱団の名称で活動していた)に在籍していた方から、「昔のグリーには、『校歌の三番の歌詞は、本当は三木露風が代筆した』という言い伝えがあった」と伺いました。

本当だったら校史を書き換えるべき一大事なのですが、これは伝聞が続くうちに話が変わってしまったと判断すべき事例です。

校歌に携わっている頃の東儀鉄笛や相馬御風の様子を客観的に記録したものはほとんど残っていないのですが、当時、高等師範部を卒業したばかりで御風とも親しくしていた詩人・歌人の有本芳水(1886-1976)がのちに随筆の中でエピソードを披露しています。それによると、御風と三木露風、ほかの友人らと酒席を囲んだ折りのこと、ひどく考え込んでいる様子の御風を心配した露風が声をかけたところ、実は今、大学からの依頼で早稲田の校歌を作詞しているのだが、いい言葉が思い浮かばない、早稲田が母校であることを表現する何かいい文句はないものだろうか、との御風の返事に露風は「相馬君、『心の故郷』という文句を入れたらどうだろうか」と助言して、御風は「いい文句だ、ぜひ使わせてくれ」と喜んだ…とのことです。

つまり、芳水の記憶に間違いがなければ、3番の歌詞のうち、「心のふるさと」という表現が三木露風の助言によったものだということでして、おそらく、当時この逸話が関係者のどこかから流れて行くうちに針小棒大に歌詞全体を露風が書いたことになってしまったのでしょう。

1・2番を御風、3番を三木露風が書いていたら、ことばの選び方や作風に明らかにずれが出てくるはずですけど、「理想の影→光」のように使われているモチーフは連続しており、露風が創作に入り込む余地があったとも思えません。

話は変わりますが、「早稲田の栄光」の作詞者である岩崎巖さんにお目にかかった際、「補作・西條八十」とあるのはどの部分だったのかお尋ねしたところ、詳細は記憶していないが、4番の「先哲の面影偲ぶ…」以下は西條先生が書き足されたものです、とのことでした。2番と3番が学生や校友の心情を歌い上げているのに対して、1番と4番は大学の歩む姿を歌っていますから、西條八十が歌詞全体の構成をシンメトリーなものに改めた意図が痕跡として残っているのだと感じました。

 

「早稲田、早稲田、…」は坪内逍遥の発案

相馬御風が校歌の歌詞を坪内逍遥のところに持参して読んでもらったら、「大いに誉めたたえ《一ヵ所も手を入れることなく》ただ『早稲田、早稲田、…』の七句をわずかに書き加えるのみであった」という記述は、「早稲田大学百年史」にも引用されている話で、長きにわたって広く実話であるかのように流布しています。

しかしながら、その場に居合わせた誰かが目の当たりにしているような講釈もどきの実況をさもありなんと思ってしまうのは禁物です。

複数の著作物に出てくるこの「場面」について、校歌研究会では、目撃者が誰なのか明らかではない、初出の典拠が不明、御風自身による「かなり手を加えて頂いた」との述懐と矛盾する、などの理由から、これは後世の創作に過ぎないとの声が多数を占めました。

さらに、作曲がまだなのに、「早稲田」を7回繰り返すことが先に示唆されたか、決まっていたというのは、本末顚倒というか、いかにも不自然な感じがします。

「慶應、慶應、陸の王者、慶應」(若き血)もそうですが、歌詞と旋律の断片を組み合わせ試行錯誤しながら曲をまとめて行くとすれば、校名の連呼が何回になるのかあらかじめ逍遙が知っているはずがないのです。

既にご紹介の通り、旋律としての「早稲田、早稲田、…」の部分は、「Old Yale」の第3部の歌い出しを参考にしてまとめたと推定されます。となると、取り寄せたいくつかの学生歌から「Old Yale」を鉄笛がピアノで弾くか歌うのを聴いて、これに早稲田の3文字を当てはめたらうってつけではないかと思い付いたのが、実は坪内逍遥や島村抱月だった可能性も考えられます。

ソプラノ歌手の藍川由美さんに、「Old Yale」と早稲田大学校歌の類似点についてコメントを頂いたことがあるのですが、この部分(「Old Yale」の「早稲田、早稲田、…」と聞こえる旋律)を是非とも曲に活かしたいという強い動機ないしは強い指示があってのことのように思われる、とのことでした。

元歌とは無関係に出来上がった校歌の校名が7回連呼されるのは当初からの逍遙の発案に相違あるまいという決めつけが捏造を生んでしまったのか、「Old Yale」のメロディを耳にした逍遙が校名のエールを思い付き提案した話が姿形を変えて別のルートで独り歩きしたのか、今となっては確証は得られないところです。

 

時代が下ると、校歌をめぐる「見てきたような」はさらにエスカレートして、昭和初期には校歌の誕生を神聖視して「相馬御風は、斎戒沐浴して校歌の作詞に臨んだ」なんて神懸かった文章も現れる始末。先ほどの有本芳水の証言にもある通り、宴席に通いながら都の西北を書き上げて行ったという方がよほど人間味あふれる信憑性の高い話ではないでしょうか。

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