二股台場の沿革 明治2年箱館戦争と二股口 明治2年(1869)4月9日に北海道南西部の乙部に上陸した新政府軍は、ただちに西部の要衝である江差を占領します。新政府軍は「松前口」、「二股口」、「木古内口」、「安野呂ロ」の4つの攻撃軸を設定したようです。このうち、松前城のある「松前口」にもっとも大きな兵力が割かれており、ついで大きな兵力が派遣されたのが、現在の厚沢部町から北斗市を経由して函館市へ至る「二股口」でした。 この動きを察知した旧幕府軍は、4月11日頃、「台場山」に到着し、ここに陣地を構築します。 二股口の戦闘 新政府軍の攻撃は4月13日の夕方頃とされています。夜通しの戦闘の後、新政府軍は退却します。 2度めの戦闘は、4月23日の夕方頃とされています。二股台場から3kmほど西側の新政府軍前進陣地付近で戦闘が始まります。退却する旧幕府軍を追って新政府軍の追撃戦が行われ、再び二股台場付近での戦闘となりました。戦闘はまたも夜通し続けられますが、新政府軍は逆に反撃を受けて敗走する場面もあり、二股台場の攻略に失敗しました。 二股台場の退却 その後、二股台場をめぐる大規模な戦闘は行われませんでしたが、松前口、木古内口での戦況は旧幕府軍にとって次第に悪化していきました。函館平野の入り口にあたる矢不来の防御戦闘が失敗に終わったことから、二股台場は戦略的な意味を失いました。 4月29日、二股台場を守備していた旧幕府軍は陣地を放棄し、箱館五稜郭へ撤退しました。守備隊の撤退により、二股台場は役割を終えることとなりました。 二股台場の位置 <iframe width="100%" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" ...
二股台場の沿革
南柯紀行 著者 大鳥圭介 参考 1998『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社 官軍の人数乙部へ上陸、松前、木古内、大野の三道へ分れ進軍の趣報告ありたれば土方歳三は衝鋒二小隊、伝習隊に小隊を師いて、市の渡口下股へ出張、予は伝習一小隊と額兵隊三小隊を率いて木古内口に出張せんとす。 (中略) 大野二股口へは土方歳三、大川正二郎、衝鋒隊二小隊、伝習隊二小隊を率いて出張せしに、四月十三日官軍先鋒長州、福山、松前、薩州兵隊五六百人襲来り、同地にては巳に胸壁を要地に築立置きたれば、之に拠り防戦す、敵方も新手を入替え襲撃し、味方も二小隊ずつ交番に休息して、防ぎ戦うこと凡そ十六時間にして、翌十四日朝七時に及び、敵引退きて稲倉石に帰れり身方も徹夜の長戦にて頗る疲労したれば、長追を止めて休息せしめたり、此戦前日より始まりて、翌日に続きたれば何れも憤発して防禦し、兵士中にて千発余は発射せし者あり、少きものも三四百発は打ちたるにより、兵士の顔硝煙に触れて、崑崙奴の如くなりたりとぞ、此時身方の死傷七八名、敵方の死傷は詳ならざれども胸壁も無ければ五六十人は必ず有りたらんと察せり。 但し此兵隊中の一小隊は、昨十二月末より箱館にて募りたる生兵なりければ、初めは何れも戦地に出たれば、強弱如何んと疑い居たるに、此防戦の時は非常の奮発にて少しも恐怖の色なく血戦し、剣を附けて胸壁の外に躍り出て、敵二人迄衝き斃し、終に戦死したる者あり、何れも其勇気を驚嘆せり、是に由て之を観れば兵は新故にあらず、其訓練の精粗にあること明なり。 (中略) 二十四日敵軍又二股口に襲来す、其兵は薩州、福山、津軽の勢なり、身方は伝習兵二小隊、同士官隊にて之を防禦し、先頃の如く本日二時頃より夜二時頃に至りき砲声不止、敵軍稲倉石に引揚げたり。 (中略) 矢不来巳に敵の有となる上は、二股の方も援路絶え、加之後より敵を受くる患あるを以て、翌三十日早暁胸壁を棄てて、兵隊皆五稜郭に引揚げたり、於是諸隊皆五稜郭に聚り、東は湯の川、東北は赤川、南は七里浜を限として、兵を分ち防禦を為せり、森、鷲の木の兵も既に五稜郭に還り、来りし故に、茂呂蘭と消息中断し、大に窮迫せり、官軍は有川、大野、大川に滞陣せり。 北国戦争概略衝鉾隊之記 著者 今井信郎 参考 1998『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社 ...
文献にみる二股台場