戊辰箱根戦役(ぼしんはこねせんえき、1868年5月20日-29日)
経緯
背景
慶応4年(1868)1月3日、「勤王派」は鳥羽・伏見の戦いに勝利(1)。
将軍・徳川慶喜追討のため「官軍」を東征させ、同年3月13日に江戸が開城した(1)。
小田原藩は、官軍への恭順を約したが、藩内には佐幕論も残っていた(1)。そこで官軍は中井範五郎と三雲為一郎を軍監として派遣して小田原藩を監視し、幕府方の「遊撃隊」に備えるよう命令していた(1)。
佐幕への転向
同年5月20日に、遊撃隊が三島から箱根関所へ迫ってきたとの情報が入り、小田原藩は藩兵300人を出動させた(1)。
このとき、江戸から、「将軍(徳川慶喜)は新政府(官軍)に服せず、数日のうちに海路、小田原へ来る。会津・仙台等の諸藩は、9万人の軍容で、目下、出府の途中にある」という情報が入った(1)。
そこで小田原藩は佐幕に転じ、翌日早朝、藩兵に休戦が伝えられ、小田原藩兵と遊撃隊は合流した(1)。
官軍の中井軍監は、小田原藩兵の労をねぎらうため、卵500個を持参して箱根の街道を上っていったところ、権現坂を下ったところで小田原藩兵・遊撃隊の合流隊と遭遇し、殺害された(1)。
中井が殺害されたと連絡を受けた三雲軍監は、江戸へ上って小田原藩の状況を報告し、官軍は小田原藩に改めて遊撃隊の撃滅を指示した(1)。
箱根山崎の戦い
同年5月26日に小田原藩による遊撃隊の掃討作戦が開始され、両軍は山崎で交戦して、遊撃隊に22人の死者が出た(箱根山崎の戦い)(1)。
遊撃隊は箱根の山中に散開し、本体は鞍掛山から日金山を経て熱海へ逃亡した(1)。箱根の堂ヶ島では、遊撃隊の兵士9人が殺害された(1)。戦いは4日間で終わった(1)。
戦後
戦後、官軍は小田原藩がいったん佐幕に転じ、遊撃隊と共闘して中井軍監を殺害した責任を問うた(1)。
小田原藩では、同年6月に家老の岩瀬大江進が自害(1)。同年9月に藩主・大久保忠礼が蟄居を命じられ、藩封が113千石から75千石に減じられた(1)。江戸に拘禁されていた家老・渡辺了叟は、小田原へ送り返された後、藩主の命令で切腹した(1)。
墓碑
- 遊撃隊士の墓 小田原・西海子小路の大蓮寺、湯本の早雲寺、宮ノ下の常泉寺、箱根町湖畔(芦ノ湖畔?)、日金山地蔵堂裏などに、戦死した幕府方・遊撃隊士の墓がある(1)。
- 官軍関係者の供養碑 小田原・板橋の地蔵尊に、中井軍監ら官軍関係者11人の供養碑がある(1)。
- 渡辺了叟の墓 同じく板橋の常光寺に、渡辺了叟の墓がある(1)。
参考資料
- 播摩晃一「戊辰箱根戦役と小田原藩」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、6-7頁
- 「年表」同書148-151頁