小田原藩(おだわらはん)

前期大久保時代

天正18年(1590)、豊臣秀吉は、小田原城を攻略した後、関八州徳川家康に与え、家康は小田原を大久保忠世に与えた(1:10)。禄高は4万石から、のち加増されて4万5千石となった(1:10)

忠世は文禄3年(1594)に死去し、武蔵国羽生城主(2万石)だったその子・大久保忠隣が2代目領主となった(禄高6万5千石)(1:10)。忠隣は、20年にわたって小田原藩の領地の開発に携わり、幕政にも参与したが、家康の勘気を蒙って、近江国栗田(太)郡中村郷に蟄居を命じられ、慶長19年(1614)1月に御家断絶となった(1:10)

前期番城時代

幕府は、城主の居なくなった小田原城を、代官を置いて管理させた(いわゆる番城時代)(1:10-11)

阿部氏時代

元和5年(1619)、上総国大多喜城主だった阿部正次が小田原城主(5万石)に任じられた(1:11)。正次は、4年後(元和9・1623)に武蔵国岩槻城主に転出した(1:11)

後期番城時代

正次の転出後は、再び番城時代となり、寛永9年(1632)まで9年続いた(1:11)

稲葉氏時代

寛永9年(1632)に下野国真岡城主(4万石)だった稲葉正勝が小田原城主となった(禄高8万5千石)(1:11)

寛永11年(1634)に正勝は38歳で没し、その子・稲葉正則が12歳で小田原城主となった(1:11)。正則による領有は50年続いた。また正則は20余年にわたって幕府の老中を務めた(1:11)

正則の没後、貞享2年(1685)にその子・稲葉正通は越後国高田城への転出を命じられた(1:11)

稲葉氏の小田原在城は53年間だった(1:11)

後期大久保時代

貞享3年(1686)、大久保忠隣の玄孫で、佐倉城主だった大久保忠朝が、断絶以来、72年ぶりに小田原城主となった(10万3千石)(1:11)

宝永4年(1707)11月に富士山が噴火し、小田原藩領では、駿東郡79ヶ村、足柄上郡71ヶ村、足柄下郡42ヶ村が被害を蒙った(1:11)。当時の藩主・大久保忠増は、幕府の老中を務めていたことから、領内の救済方を幕府に願い出、翌年(宝永5年・1708)から被害地は幕府領に編入され、幕府による復興事業が行われることになった(1:11-12)。小田原藩には、その村高に等しい土地が替地として一時的に与えられた(1:12)

復興事業は延享4年(1747)まで39年間継続され、藩主・大久保忠興の時代に旧領が小田原藩に返還された(1:12)

大久保氏の治世は、明治の廃藩置県(明治4年・1871)まで続いた(1:11)

歴代藩主とその在任期間

参考資料

  1. 市川幸雄「昔の小田原と西北4部落の成立」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、10-16頁

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