鍛冶村 について知っていることをぜひ教えてください
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鍛冶職が住んでいたことに由来すると考えられる。
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鉄滓が出土している。付近の長藤中条の宮ノ原遺跡の住居址からは平安時代後期の鉄滓が出土している。
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鍛治職は16世紀に甲州武田氏の配下で現地生産にたずさわる職人として高遠に入ったとされる。
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鉄製の武具の鍛冶も行っていたと思われる。
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弥勒の南にあった廣瀬垣外に鍛冶職として移住したとされる。
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鍛治職は三筋あったとされる。大きな木の下に住みついたと伝えられている。
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鍛冶の工程で、鍛錬の状況を目視するのに日当たりのよい場所は適さなかったため、藤沢川の対岸の現在地に移ったと伝えられている
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元禄3年(1690)の「信濃国伊那郡板町村御検地水帳」に「鍛冶村」、安永8年(1779)に編集された「木の下蔭」に「鍛冶邑」の記載が見える。
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近世には板町村の枝村であった。
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川の浸食を受け、齧(カジ)られている地形であるからとする説もある。
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村の範囲は、北は板山沢から南は樋ケ沢まで、西は藤沢川から東は月蔵山の尾根までとされている。
藤沢川下流方面の組を下(シタ)といい、上流方面の組を上(ウエ)ということもある。
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明和年間(1764-1772)に写された「武田氏織田氏戦斗配置図」には、藤沢川を挟んで高遠城の対岸に鍛冶村の記載が見えるが、現在の鍛治村との関係は不明である。高遠城址に鍛冶堀がある。
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市内では御園に鍛冶屋、荒井に鍛冶田、西春近小出と表木にそれぞれ鍛冶垣外、三義宮原に鍛冶坊、長藤御堂垣外に鍛冶畑の用例がある。また、下手良にかじや、西春近表木に梶ヶ島、富県上新山に梶原の用例がある。
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鍛治がつく地名は全国に多数あるが、鍛冶村(鍛治村)は、秋田県横手市、群馬県安中市、熊本県大津町にある。
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六番組(六番)という、東高遠の組に付与された行政上の通称も、明治26年(1893)から平成2年(1990)頃まで使われていた。
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東西を山に挟まれ日照が通常の村の半分ぐらいとするところから、俗に、半日村という別称もある。同名の絵本(斎藤隆介/作、滝平二郎/絵)がある。
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鍛冶(にすい)と鍛治(さんずい)では、鍛冶(にすい)を使用している。
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明治初期の記録に煅冶村の表記も見られる。
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村には鍛冶屋の屋号がある。
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現在、村には十数戸あるが、ほとんどが廣瀬姓であり、ほかに川手姓があった。
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甲斐武田氏に仕えた廣瀬郷左衛門景房の末裔とも伝えられている。
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島根県安来市には広瀬町があり、近世には広瀬藩として治められた。たたら製鉄が盛んであった。
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貝や甲斐、鹿塩や柏、加持、ガンジ、願じ、鰍や蟹、金糞、諏訪氏と梶の葉紋との関連
【地域の教科書】