豊三 家安(ぶんぞう いえやす)は、治承4年(1180)の石橋山の合戦のとき、佐奈田与一義忠と共に討死したとされる、その郎等。享年57。(1)
『東鑑』は「家安」を「家康」と記し、『源平盛衰記』は「豊三」を「文三」と記している(1)。
米神と石橋の境界あたりに、家安の墳墓とされる文三塚がある(1)。
以下は『源平盛衰記』からの引用。
文三家安は、大勢に被推隔、主の与一が討れたるをば不知、主を尋て走廻けれども、敵は山に満々たり、尾は一隔たり、高声に云けるは、 東八ヶ国の殿原は、誰か源氏重代の非御家人、平家追討の院宣を下さるゝ上は、今は兵衛佐殿の御代ぞかし、源氏の御繁昌今にあり、明日は殿原悔給べし、矢をも一筋放ぬさきに、参候へかし とぞ訇(よばはり)ける、 相模国の住人・渋谷庄司重国、 角云は誰ぞ と問、 佐奈田殿の郎等に、文三家安 と答、重国申けるは、 あゝあたら詞を主にいはせで、人がましく と云、家安は 悪き殿の詞かな、げに人の郎等は人ならず、去共家安主は二人とらず、他人の門へ足蹈(ふみ)入れず、うでくび取て不追従、殿こそ実の人よ、桓武帝苗裔、高望王の後胤、秩父の末葉と名乗ながら、一方の大将軍をだにもし給はで、不思寄大場三郎が尻舞して、迷行給ふをぞ、人とはいはぬ、家安人ならず共、押並て組給へかし、手の程見せ奉らん と云たりければ、敵も味方もどゝ笑ふ、 重国由なき詞つかひて、苦返てぞ聞えける、 家安は秩父の一門に、稲毛三郎が手に合て戦けり、 重成申けるは、 やをれ文三よ、己が主の与一は討れぬ、今は誰をか可育、にげよ助けん と云、文三申けるは、 やゝ、稲毛殿、家安は、幼少より軍には蒐組と云事は習たれども、逃隠と云事は不知、主の死ればとて、逃んは御辺の郎等をば何にかし給べき、まさなき殿の詞哉、与一殿討れ給ぬと聞て後は、誰ゆえ身をばかばうべき、逃よと宣はんよりは、押並て組給へかし とて進ければ、稲毛が郎等阻々戦けり、 家安分捕八人し、討死してこそ失にけれ、誉ぬ者こそ無りけれ、
※続きは石橋の佐奈田義忠の墳墓(与一塚)の項を参照。
参考資料
- 『風土記稿』