山田俊一郎さん

努力次第で本当に収入が変わる

農家を継ごうと思ったの自然なこと。昭和43年。田中角栄の列島改造の時代。農地では米の減反が始まった。その代わり、食管制度で、政府が逆鞘を払っていtので、米は米が1俵2万円していた。公務員の初任給が2万3千円だった時。農家は悪くなかった。農業高校の同級生の40人学級で、就農が28人。減反ではあったが米価は安定していた。父やからぶどうを任されたことで、自分でじっくり研究した。弱い資材でハウスをかけて、風で全てがやられた時「親父が助けてくれた。金を工面してくれてやり直しができた」という。

農家としては3代目

じいちゃんが果樹販売。この辺の柿などを買って、売っていた。焼酎をかけたりして卸す。お父様たちは3人兄弟。その仕事で稼いで、戦後のもののない時は農家だと収納する。今で言えば、億単位のお金をかけて、土地家屋、納屋、資材などの農家としての投資をしている。読み書きできない人がやった。実なる前に、樹勢を読む能力があったようで、柿の木に手付金をつけて、売って利潤を出していたようだ。

 

東北本線を通さない運動

蒸気機関車走らせるとを桑の木に蒸気がかかるので、養蚕がだめになると、この辺の人たちは鉄道の敷設に反対した。本来なら、ここが東北本線の通る土地だった。そして、高子沼は観光地。養蚕などで栄えた福島や伊達の客が押し寄せた一大リゾート地だった。ダンスホールもあったという。60歳後半の人は皆知っているが、パチンコもあった。ラーメン屋、おでん屋、花見席などがあり、今は高子荘だけが残っている。

高子金山から出た金は・平泉の金はここからも言っていたという。伊達がこの地を離れる時に水没させた。明治になっても採掘はあったようだがコストが合わず廃残になった。山田さんの祖先は明治8年の高子村の33軒の一軒。金堀関係で来た人、その後は高子団地、ハイタウンと絶えずよそから来る人々を受け入れてきた土地だという。

 

桃からぶどうへ

昔この辺で作っていた桃は昔の品種。おおくぼ、すなかた、たちばな、品種改良の途上で病気に強かった。消毒も年に4,5回で済んだで、樹の皮も虫食いがなかった。今の桃は美味しいけど、弱い。大量の薬と世話が必要な割に値段が上がらない。天気が良い年は美味しくて、あめが多いと味は良くなかった。

ぶどうは山梨から。祖父が選果もやっていたので繋がりがあった。

農家の倅が農家を継ぐのは当たり前。農業を悪いもんだと思って居なかった。まちの人が農家になるのは大変。技術、土地かって、機械かって。農家に生まれた長男はそれが揃っている。農家になるのは自然な流れだった。今の時代は、むしろ、それを学ばないといけない。

 

農について地元が考える時代