上富田町岩田の富田川右岸に、庚申松という高さ約20メートル、周囲約4メートルの大きな松がそびえています。この松の木の下に、庚申さんが古くから祀られているので、人呼んで庚申松といいます。その庚申塔のすぐかたわらに、むした小さな一個の墓がある。この石碑には「回道禅定門文化5年1月9日」と彫られており名前はないです。そこでこの村の寺を訪ねて由来を聞いてみると、こんな話が残されていました。 いつのころかわからないが、この村へと一人の順礼が現れて、村中をして歩いていました。ところがこの順礼、いつの間にやら、この村に住み着いて、庚申松の下へ小屋をかけ、村人のいうままに、はい、はい、はいと使い走りや、日雇いなどに雇われて重宝がられていたといいます。ところがこの老順礼、年には勝てずいつか病気がちにとなり、どっと寝込んでしまいました。近所の人たちの手厚い看護に感謝しながら、死の直前語ったところによると、彼は若い頃江戸浅草でかなり手広く商売をやっていたといいます。ところが性来の勝負好き、各地のバクチ場を荒らすうちに気も次第に荒くなり、ついにささいなことからけんかとなり、相手を殺してしまってお尋ね者だといいます。当時、江戸で流行した抜け参り(親や主人の許しを受けないで家を抜け出し、 往来手形なしで伊勢参りに行くこと)の列には、いわゆる関東兵衛の列に入って各地の宮やお寺を巡拝しているうちに気持ちもしだいに落ち着き、を思うといい、伊勢神宮に参拝します。次いで足をのばし、熊野参りの、矢も盾もたまらず、毎日念仏生活に日を送っていたといいます。そうして岩田の里に落ち着くと、やさしい村人たちに遇されて自分は幸福だ、お熊野さんのお陰だといいつつしたといいます。遺言によって村人が、庚申松の下に小さな墓を建ててやったが、 それから2年目に、江戸からはるばる娘が訪ねてきてねんごろに供養して帰ったといいます。 <熊野文庫より引用>
庚申松
昔は、富田川(とんだがわ)はよう大水出て、そのたんびに田んぼや畑が流されてん。 ほいでに村の人は、大雨にも崩れんしっかりした堤防ほしなあて思いやってん。 ある年もまた大水出てな、人も馬も流されて死ぬし、田んぼも畑も埋まってしまうような目におうたんで、 もう、今度こそしっかりした堤防ほしいちゅうんで、氏神(うじがみ)さんにまいってお願いしてん。 ほいたら夢枕(ゆめまくら)に神さんが現れて「堤防に人柱を立てよ。そいたら堤防は安全や」て言うてんとう。 人柱ちゅうのは、神さんの心を慰(なぐさ)めるちゅうて、生けったある人を土の中に埋めることや。 さあ、いったいだいを人柱にしようかて、村の人は何べんも寄り合いしてんけど、なかなか決まらなんでん。 ほいたら、その場にいた彦五郎はんがさって立ち上がって 「こんがに相談しても人がないんやったら、わしに考えあるんやけど、言うてもええか」 て言うてんとう。村の人は、日ごろ無口な彦五郎が、急に大きな声でしゃべり出いたんでびっくりしてそっち見たら、 不精(ぶしょう)ひげいっぱい生やいた顔を、赤茶けた手拭(てぬぐい)の端で拭きもおて 「わしが思うに、あがから人柱になりたいていう人らおらんやろ。 ほいで、この場で、着物のつぎが横継ぎにあたったある人おったら、その人に人柱になってもらおやないか」 て言うんや。 村の人ら、なっとうしょうかてよわりこんだあったもんやさかい、そいはええ考えやちゅうて、 みんなお互いの着物のつぎ見せおうてんとう。ほいたら、なんとまあ、 言い出いた彦五郎はんの着物に大きな横継ぎのつぎが当たったあってんとう。ほいで、とうとう彦五郎はんが人柱になってん。 そいからこっち、富田川の堤防はどんなにえらい雨降っても切れんようになってんとう。 ...
彦五郎伝説 ~岩田~
国道から車で30分の上富田町岩田の田熊という所に、当山脈といわれる真言宗系の醍醐寺(だいごじ)の三宝院に帰属する山状で、慈道院という人が住んでいました。彼は三宝院門跡が、吉野大峰山から熊野三山へ「逆の峰入」をされる度ごとに、「奥駈七十五靡」の先達をつとめたその道の達で田熊の女郎渕という渕で祈禱(きとう)(祈ること)して、雨を自由自在に降らせたり止めたりしたといわれ、また大きな下駄を履いて、20メートルもある川幅を飛び越える奇跡を行い、里人から畏敬(崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと)されたと伝えられています。 ある年、日照り続きで村中の稲が枯れかかり、里人たちは慈道院に雨乞いを願い出ました。彼は直ちに女郎渕に参籠して祈禱を捧げ、里人たちに 「急いで家に帰られよ。今すぐ大雨となり申す。」 といって、持って来た弓を射ると、みるみるうちに四辺が暗くなり、大雨が降り出しました。具合よく水が行き渡った頃を見計らい、下流に下って再び弓をとり矢を放つと、ぴたりと雨が止んだので、人々はその霊験のあらたかさに驚き入り、歓喜したといわれています。 また慈道院が吹いていたほら貝は、三斗三弁(60メートル)入り、大きなものであったといいます。 女郎渕から、富田川の栗山渕へ通ずる抜け穴があったとみえて、女郎渕へ神酒を捧げ、膳を渕に投げ込むと、翌朝少しも損傷しないで、数百メートルを距(へだ)てて、途中に大きな山で区切られた栗山渕の祠の前に出てきたと伝えられています。
女郎渕と慈道院 田熊 ~岩田~
上富田町の生馬橋を渡って、市鹿野へ向かう県道を4キロほど行くと、上鳥渕の部落にさしかかります。ここから小橋を渡り右側に分かれる山道は昔の宇津木越えで、かつては日置川奥と田辺を結ぶ間道でした。 この道の東側に見える、標高330メートルの山が「上の山」で、山頂には立岩とよぶ巨岩がそびえ、麓の磐座(いわくら)(信仰される岩のこと)に「上の山神社」が祀られています。 上の山神社は最近まで小祠もなく、折り重なった一群の巨岩が信仰の対象でした。山に入るときには、必ずここに詣り、神の許しをうけないと、祟りがあるといわれます。 この山の主は大蛇で、人々の入山をきらい、勝手に山に入ると、はじめに長さ10センチほどの小蛇が現われ、それに気付かずに登って行くと50センチ・1メートル・2メートルと蛇がだんだん大きくなって道をふさぎます。山頂付近では、胴回り30センチをこえる大蛇になります。これを見た者は、精神異常や不治の奇病にとり付かれ、なかには生命を失う者が出たので、昔は里人からたいへんおそれられていたといわれます。 また、女性は、月のものがあるときには入山をひかえ、家人にそれがある場合は、別火で朝食や弁当をこしらえてこの山に入ったといいます。 この付近を流れる谷川のみずが、急に涸れて干し上がり、しばらくすると、もと通りに流れはじめることがあり、昔から、これは山の主の大蛇が、谷川に水を飲みに来たために起こるのであると伝えられています。
山の上の大蛇伝説(鳥渕) ~生馬~
ある夏の夕日のことであった。ここ石田川(今の富田川)のほとり稲羽の里の、ある楠(くすのき)の大木(おおき)の根元(ねもと)で、一人の旅僧(たびそう)が流れる汗をふきながら、疲れを休めていました。そこへ一人の老人がたくさんの稲束を背に負って通りかかり、見ると老人は、白髪の下、眼光(がんこう)けいけいとして人を射るようなまなざしをして、いかにも由緒(ゆいしょ)ありげである。そばには二人の娘がつき添い、これからもまた稲束を背負っており、どこか知らぬが我家へでも帰るようでありました。そこで旅僧はこの親娘に声をかけようかと思ううちに、足早に通りすぎ、アッという間にその姿を見失ってしまいました。日もはや西に傾き、ようやく暮れてきたので、僧はそのまま野宿をすることにして、いつかぐっすり寝込んでしまいました。その夜、僧をそっとゆり起こすものがあり、見ると夕方見た老翁でありました。そして、「私はずっと以前稲羽の里の長者であったが、今は死に絶えている。女二人は私の娘であるが、どうか私を上宮(うえのみや)とし、女二人を下・中社としてこの地に祀って(まつって)ほしい」といったかと思うと、ハッとして夢から醒めました。僧は不思議なことがあるものと思い、早速この地に稲荷のお使いとして、三人を丁寧に祀ったのです。後世、この社が稲葉根王子となり、稲荷社は末社として末永く祀られ、白河法皇らの奉幣(ほうへい)を受けられました。なお、この僧は名を円仁といい、比叡山延歴寺第二代をついだ天台の高僧、智証大師その人で、平安初期の仏教興隆に大いにつとめ、のち天台および真言の両教に通じた人でありました。時にはおよび嵯峨天皇、弘仁十二年夏のころで、大師が年来の宿願であった熊野詣の、その帰り道のできごとでありました。
智証大師と稲荷明神
江戸中期のある夜遅く、傷を負った一人の武士が、今の上富田町市ノ瀬の興禅寺の門をたたきました。故あって追手の追求を逃れて逃げてきたのだといいます。和尚はその男を下ノ岡観音堂にかくまいました。彼は名を川合宗五良といい、観音堂で寺子屋を開いて、村人に読み書きを教え、土地に親しみを持つようになりました。ここに逃げてきたとき、妻を連れてきたともいうし、また村の娘を妻にしたともいうが、いずれにしても夫婦仲むつまじく暮らしていました。ところが、追及の手がここにも及んできました。そこで、村人に迷惑がかかってはいけない思い他国に落ちのびることを決意しました。数年後再びこの観音堂に来ることを、約束し、暗に乗じて夫婦は別々の方向に去っていきました。その際、無事の再会を誓って、黒松と赤松を植えました。数年後宗五良は帰ってきたが、妻はまだ帰らず、出立ちの時に村人に預けた赤ん坊も病気で死んでいました。彼は再び寺子屋を続けました。しかしそのうち病気になり、一人淋しく息を引き取りました。ところが奇しくも通夜の晩、やつれ果てた妻が帰ってきました。妻は遺体にすがって泣き悲しみました。妻はまもなく仏門に入り、観音堂の堂守をして夫や子供の菩提(ぼだい)を弔いました。そのうち、この尼も夫や子供の後を追うように死にました。村人たちは夫婦の生涯を哀れに思い、黒松と赤松のそばに遺体を葬りました。この2本の松は生育して大きくなったが、根元はくっついて全く一緒になっており、2メートルくらいの高さで漸く10センチほど空き、寄り添うようにして二百年あまり生き続けてきました。これが観音めおとの松であります。ところが、近年南紀一体が松喰虫の被害を受け、このめおと松も、数回の消毒もむなしく一本は昭和45年に、もう一本は翌46年に相次いで枯死し、伐採のやむなきに至りました。従って今は見ることができません。なお、興禅寺の過去帳によれば、川合宗五良は文政2年に、妻は文政10年に死亡しているといいます。墓石の所在は不明です。
興禅寺めおと松 ~市ノ瀬~
歴史 古くは、上富田町内公民館対抗町内一周駅伝として実施されていたものが、参加者の減少から運営が困難になったのを機会に、上富田マラソン大会として、町外にも参加の門戸を開き、市ノ瀬小学校を起点に実施されたのが始まりです。最初は、ハーフもフルもなく、幼児から、一般まで参加できる10キロ程度までのマラソン大会でした。これを町の一大イベントとして、ハーフやフルマラソンの部を開設し、現在の形になりました。フルマラソンが始まった当時は、国道42号線を使い、中辺路町、大塔村、白浜町の4町村に渡っていましたが、交通規制の関係もあり現在の形になりました。 住人から見た口熊野マラソンの特徴 応援はモチロン、多くの町民がボランティアとして運営に参加しています。例えば、ハーフとフルマラソンのコースには1キロごとに小中学生が作った応援メッセージが設置され、温かさを感じることが出来ます。 昨年度の参加者の感想の中に「最初のエイドでそれでも給食切れたときにボランティアの方々が『ごめんなさいー、これ食べてー』と自分達のおやつらしきお菓子を配ってたのは感動。」とありました。 35キロ以降が下り坂なので、一番きつい時に楽です。折り返しが多いのでゴメンナサイ。それと一部細いところがあります。スイマセン 20キロ、25キロ、30キロに昇りがあります。 エイドには梅干しやコーラなどもあります。最後はエアーサロンパスもありました。 完走すると参加賞があります。昨年度は選択式で「タオル・梅ジュース」でした。タオルが早くなくなりました。 地元の「紀州茶がゆ(おかいさん)」の振る舞いがあります(無料)凄い人気です。特に寒い時は早くなくなります。昨年はトッピングで金山寺味噌や岩のりもありました。(すべて無料) 紀州口熊野マラソン公式ホームページへのリンク "紀州口熊野マラソン" タグの付いたページ
紀州口熊野マラソン
旅の僧が村里へやってき来て、水を所望したとき、この村にはよい水ができないので、適切な村人が遠くまで汲みに行って与えました。そこで、旅僧は手にしていた杖で地面をついたところ、そこから良い清水がわき出てきたといいます。旅僧が立ち去った後で、弘法大師であったことがわかったという話は、いわゆる弘法井戸、弘法清水、杖つき井戸などの名で全国的に広く分布しています。 上富田町朝来峠の国道四二号線のそばに弘法井戸があります。きれいな水が満ち、汲んだだけ湧き出て、あふれることがないといいます。昔、弘法大師が熊野へ行脚(あんぎゃ)の途上、水を求めたところ、遠くまで汲みに行って与えたので、「この土地は水に不自由のようだから、水の便をはかってやろう」と祈禱(きとう)を始めると、乾いた土地から清水が湧き出てきました。この井戸はどんな日照りにも涸れることがなく、昔から道行く人々ののどを潤したといわれています。 弘法水の伝説は日本伝説名彙によると、内容によって10種類にわかれるそうだが、これは親切にしてくれたので井戸を与えた類型に属し、杖の呪力ではなく祈禱によって水を出しています。 この付近から富田川の河口に至る村々では、以前は豌豆(エンドウ)を作らなかったといいます。大師に豌豆の喜捨(きしゃ)を乞われたが一粒も与えなかったので、その罰として豌豆を作るとさやに穴がないのに必ず虫が入るようになったからです。 本宮町大瀬には「まかずの蕎麦」があり、馬頭観音の境内に「蕎麦大師」が祭られています。弘法大師が熊野参詣のとき、腹をすかせた村人に食べ物を乞うと、村人は食べ物がないので、貯蔵していた蕎麦の種を全部、蕎麦粉にして施しました。大師は親切なもてなしに酬(むく)いるため「この蕎麦の殻をまけば後々食物に困ることはない」と、言い残して去ったが、いわれたとおりにすると殻から蕎麦が生え、それ以来、毎年種をまかなくとも「大師さまの蕎麦です」といって掘れば、必ず蕎麦が自然に生い茂るといいます。 これも弘法伝説で、類型の多い「成木もの伝説」です。米は「筒米」といって竹筒に米をいれてしまっておき、病人が重態となったとき、耳の許でこの筒を振って、米の音を薬にしたという話も残っています。山里の暮らしの中で、芋や蕎麦は主食に近い貴重な食料であった、それが、まかずに生えるのだから大師の威徳(いとく)もさりながら、この付近の山野は気候土質が蕎麦の成育に適し、少し離れた所では最近まで畑地や道端に、ところかまわず自生していたようです。 このような話が、弘法大師以外の高徳の僧や英雄たちの事蹟(じせき)になっているのも、全国的に広く分布しているが、この種類のものに本宮町湯峰の「まかずの稲」があります。 説軽節や浄瑠璃で名高い「小栗判官」が湯峰温泉に入湯したとき、藁で髪を結び、使いのこりの藁を捨てたら自然に根が生え稲になりました。そこの田地は年々籾をまかなくとも稲が実り、これを湯峰薬師の供物にしたといわれています。
弘法の井戸(蕎麦大師) ~朝来~
上富田町の生馬橋を渡って、市鹿野へ向かう県道を4キロほど行くと、上鳥渕の部落にさしかかります。ここから小橋を渡り右側に分かれる山道は昔の宇津木越えで、かつては日置川奥と田辺を結ぶ間道でした。 この道の東側に見える、標高330メートルの山が「上の山」で、山頂には立岩とよぶ巨岩がそびえ、麓の(信仰される岩のこと)に「上の山神社」が祀られています。 上の山神社は最近まで小祠もなく、折り重なった一群の巨岩が信仰の対象でした。山に入るときには、必ずここに詣り、神の許しをうけないと、祟りがあるといわれます。 この山の主は大蛇で、人々の入山をきらい、勝手に山に入ると、はじめに長さ10センチほどの小蛇が現われ、それに気付かずに登って行くと50センチ・1メートル・2メートルと蛇がだんだん大きくなって道をふさぎます。山頂付近では、胴回り30センチをこえる大蛇になります。これを見た者は、精神異常や不治の奇病にとり付かれ、なかには生命を失う者が出たので、昔は里人からたいへんおそれられていたといわれます。 また、女性は、月のものがあるときには入山をひかえ、家人にそれがある場合は、別火で朝食や弁当をこしらえてこの山に入ったといいます。 この付近を流れる谷川のみずが、急に涸れて干し上がり、しばらくすると、もと通りに流れはじめることがあり、昔から、これは山の主の大蛇が、谷川に水を飲みに来たために起こるのであると伝えられています。 <熊野文庫より引用>
鳥渕大蛇
智証大師と稲荷明神 ある夏の夕日のことであった。ここ石田川(今の富田川)のほとり稲羽の里の、あるのので、一人のが流れる汗をふきながら、疲れを休めていました。そこへ一人の老人がたくさんの稲束を背に負って通りかかり、見ると老人は、白髪の下、けいけいとして人を射るようなまなざしをして、いかにもありげである。そばには二人の娘がつき添い、これからもまた稲束を背負っており、どこか知らぬが我家へでも帰るようでありました。そこで旅僧はこの親娘に声をかけようかと思ううちに、足早に通りすぎ、アッという間にその姿を見失ってしまいました。日もはや西に傾き、ようやく暮れてきたので、僧はそのまま野宿をすることにして、いつかぐっすり寝込んでしまいました。その夜、僧をそっとゆり起こすものがあり、見ると夕方見た老翁でありました。そして、「私はずっと以前稲羽の里の長者であったが、今は死に絶えている。女二人は私の娘であるが、どうか私をとし、女二人を下・中社としてこの地にほしい」といったかと思うと、ハッとして夢から醒めました。僧は不思議なことがあるものと思い、早速この地に稲荷のお使いとして、三人を丁寧に祀ったのです。後世、この社が稲葉根王子となり、稲荷社は末社として末永く祀られ、白河法皇らのを受けられました。なお、この僧は名を円仁といい、比叡山延歴寺第二代をついだ天台の高僧、智証大師その人で、平安初期の仏教興隆に大いにつとめ、のち天台および真言の両教に通じた人でありました。時にはおよび嵯峨天皇、弘仁十二年夏のころで、大師が年来の宿願であった熊野詣の、その帰り道のできごとでありました。 <熊野文庫より引用>
智証大師