現在の幕西坂

幕西坂 について知っていることをぜひ教えてください

 

「ふるさと室蘭ガイドブック」の記述

室蘭市の「ふるさと室蘭ガイドブック」(2015年4月発行)があり、

http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/hurusatoguide.html

の中に、室蘭の坂にかんする記述があり、そこに「幕西の坂」として記述がある。

http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/documents/16_03-11saka.pdf
幕西の坂(幕西坂)(幕西町)幕西の語源は、アイヌ語「マクン・ニウシ」で、「後方の・森林(訳は知里真志保による)」の意味です。「ニウシ」には「木・群生している・ところ」の意味もあります。その昔は名だたる遊郭街で、明治5年(1872)の札幌本道工事に従事した数千人の荒くれ男が、始終この場所に通い、殴り合いの喧嘩が絶えず、幕西坂は“人殺し坂”と異名をとるほどでした。幕西遊郭は、同25年北海道庁の告示により、老名牛(おいなうし:現在の追直)に移転することになったのですが、老名牛住民が「コンブの干し場がなくなるし、風紀上好ましくない」と猛反対して中止になりました。同28年に、幕西を遊郭区域に指定し、札幌通り沿いに点在していた料亭や貸座敷が集約され「幕西遊郭」が誕生しました。最盛期の同42年、当時の室蘭町内には、幕西遊郭を中心に、料理店78件、貸座敷13件がひしめき、結局終戦後の公娼制度廃止まで続きました。現在の幕西の坂は落ち着いた住宅街に生まれ変わり、その当時の風情はほとんどありません。

1892年(明治25年)当時、室蘭の住民の意見が政府の決定を覆している様子がうかがえる記述と、幕西坂が「人殺し坂」と異名を取っていたことが記述があります。

1895年(明治28 年)には幕西が公娼制度で指定地区となっている。

 

広報誌の記述

室蘭市の広報誌「広報むろらん」には、2011年11月にhttp://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/2011_11.html「坂」の特集記述がある。
http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/documents/2011_11p2-6.pdf
幕西はその昔、有名な遊郭街で、明治5年の札幌本道工事に従事した数千人の男たちが、終始この場所に通い、殴り合いのけんかが絶えず、幕西坂は〝人殺し坂〞と異名をとるほどでした。幕西遊郭は、同25年北海道庁の告示により、老名牛(おいなうし:現在の追直)に移転することになりましたが、 老名牛住民が 「コンブの干し場がなくなるし、風紀上好ましくない」と猛反対して、幕西遊郭は結局、戦後の公娼制度廃止まで続きました。現在、幕西の坂は落ち着いた住宅街として生まれ変わり、その当時の風情はほとんどありません。
 

「親なるもの 断崖」での記述

室蘭出身の漫画家、曽根富美子が「親なるもの 断崖」を著したのは、1988年の2月から1989年の初夏まで。http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1506/18/news025_2.html でインタビューに応えて「少女漫画ではいろいろと漫画の内容にも規制があったんですが、女性誌に移ってから『何描いてもいいよ』と言われて描く世界が広がりました」と語っている。

室蘭wikiの企画記事で「親なるもの 断崖」を書かれた中村麻貴さんに作品のなかから「第一部の220頁から その記述があります」と引用をいただいた。
市役所の資料よりも前に「人殺し坂」の取材がなされている。

「明治二年 新政府は開拓使という役所を札幌に建設」

「廃藩置県が行われたのち 開拓は行われ 中でも宮城県を中心として 伊達藩は一門一家をあげて北海道へ集団移住」

「室蘭では兵屋のあった場所が『ラッパ森』という地名で残っている」

「開拓使は女を東京より呼び込み始めた」

「室蘭では 明治五年 道路工事中の越冬人夫を見込んで 幕西坂入り口に最初の いわゆる『女郎屋』が店開きした」

「室蘭港の開港とともに 明治六年 ついに札幌本道の完成 それは 一寒村に過ぎなかった室蘭の庶民生活を 短時間で一挙にかえるほど 甚大なものであった」

「女郎屋も のきなみ足をそろえ 明治二十八年 幕西町が 正式に遊郭区域に指定され 『幕西遊郭』が誕生する」

「幕西坂では 女の奪い合いで 荒くれ男達の殺し合いまで始まり 『人殺し坂』との異名がつくくらい 社会の裏と表が交差する人間ドラマの坂となった」


「親なるもの 断崖」

 

幕西坂

 

室蘭の坂

Add new "室蘭の坂"