登別川氾濫原

現在の登別川とフシコベツ川の低地を仮に「登別川氾濫原」と呼びます。この氾濫原の経緯、更新世の時代、縄文海進以降の変遷などについて、ご存知の方は編集、ご指導をお願いします。

 仮称登別氾濫原は北がクッタラ火山の火山大地、西にランポッケ岬、東にポンアヨロの断崖、南にフンベ山に囲まれた場所で登別川の浸食、運搬、堆積作用で運ばれてきた土砂などがたまってできたと考えられ更新世から現在まで小さな三角州として発達してきたと考えられます。この登別氾濫原エリアの登別川は蛇行を繰り返し流路が東によったり西に触れたりしていると予想されまさに登別川氾濫原と呼ぶにふさわしいところだと思われます。約2万年前のウルム氷河時代の最寒冷期には海面が現在よりマイナス90mとも140m低下したともいわれています。海面が低下した90m~140mラインを当時の海岸線と見ると大陸棚近傍になり、その当時の海岸線が現在の海岸から10k以上も沖合いにあったということが海図などから読み取れます。

 その当時は現在の登別氾濫原エリアはもっと侵食により切り込まれた深い渓谷だったかもしれません。登別川はクッタラ火山が火山活動により噴出した火山灰や軽石、溶岩などの噴出した台地を深く削り込んで流れています。新登別大橋のあたりでは大地から120mほど切り込んでいますが120mの落差は4万年くらいの時差しかあえません。その後の2万年間の急激な海進は6000年前の縄文海進をピークとして現在の登別氾濫原地帯に三角州を成長させたものと思われます。氾濫原の地下には旧流路が埋没谷になったりして幾本も埋め込まれていると予想されます。

 縄文海進時の登別氾濫原は海に成り、河口は旧アイヌコタンあたりにあったものと思われます。このようなことから氾濫原の西側は砂浜が発達したと考えられますが東側は川西燃料さんの裏手当たりのボーリング調査によると20m以上の軟弱地盤が埋まっています。泥炭の下に粘土質のシルト層などが広がっています。マリンパークの工事のときにアシカ館の地下を見る機会がありました。そこは青い粘土層や泥炭などがありました。その中からタモ炭化木を私の親父(荒川哲二)が引き揚げたことがあります。この埋もれ木が腐らずに残っていたことから一時的に湖沼の環境もあったかもしれません。現在もこの炭化木の破片はあるのでC14年代測定をするとこの木の年齢がわかるのですが、取り出した地層を調べる機会が無かったので、あまり意味が無いかもしれません。手がかりはタモの埋もれ木に青い粘土が付着していたことくらいです。

 登別川は氾濫原を西に東にあばれて流路をいくどとなく変えたと思われます。フシコベツというアイヌ語は古い川という意味があり、アイヌの人たちの生活した時代に登別川が今よりももっと東に流れていたことが川の名前からも推定できます。登別川はその後、現在の位置に落ち着いたということに成ります。いずれにしても東側は湿地帯で現河川沿いに自然堤防が発達し、東側は後背湿地的な環境が長く続いたのではないかと思われます。

 

 

以下地質図Navi.よりhttps://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#14,42.45167,141.16637