北原 白秋(きたはら はくしゅう)

経歴

(小田原へ移住する以前)三浦三崎に住んで「城ヶ島の雨」を詩作した(2)

1918年(大正7)、鈴木三重吉が創刊した児童文学雑誌『赤い鳥』の童謡の部を担当することになった(2)

同年3月、東京・本郷(1)ないし葛飾(2)から小田原へ移住(1)(2)。1ヵ月ほど御幸の浜養生館に仮寓した後、十字町3丁目(南町、旧御花畑)へ転居(1)。同年10月に天神山(城山4丁目)の伝肇寺本堂の横部屋に仮寓した(1)

1919年(大正8)8月、伝肇寺の境内に茅葺き屋根の「木菟(みみづく)の家」を建設した(1)。白秋は、そこから水の尾へ通じる山道を散歩道にしていた(1)

1920年(大正9)6月に、隣地に赤い瓦屋根の洋館「白秋山荘」を建設した(1)(2)。白秋山荘の地鎮祭の後に妻・章子との関係が破綻して離婚した(2)

1921年(大正10)4月に佐藤菊子と結婚した(2)。1922年(大正11)、長男・隆太郎が誕生(2)。(1923・大正12年)関東大震災で山荘が半壊したが(1)(2)、その中で著作活動を続けた(2)。1925年(大正14)には、長女・篁子(たかこ)が誕生した(2)

この頃、白秋は、家庭的にも経済的にも安定した生活を送るようになり、詩、民謡、童謡、短歌、俳句、小説評論などの分野にわたって旺盛な著述活動をしていたことから、「小田原山荘時代」と呼ばれている(2)

歌集『雀の卵』、詩集『とんぼの眼玉』『兎の電報』『まざあぐうす』『祭りの笛』『水墨集』『花咲爺さん』『子供の村』『二重虹』などの童謡集、詩文集『小田原文章』『季節の窓』『風景は動く』など、『葛飾文章』『哥路(ころ)』『金魚経』『よぼよぼ巡礼』などの小説、『お話・日本の童謡』などを出版ないし発表しており、童謡の中には小田原やその附近の風物が多く詠われている(1)(2)

民謡集としては、1919年(大正8)に『白秋小唄集』、1922年(大正11)に『日本の笛』、1924年(大正13)に『あしの葉』などを出版した(2)

小田原では俳句も多く作り、荻原井泉水河東碧梧桐などと俳論をたたかわせた(2)。小田原の河野桐谷倉橋如紅らとしばしば句会を開き、それを『小田原実業新報』に発表した(2)

この頃、大木惇夫藪田義雄府川恵蔵などが門下生となった(2)

また小田原中学校長だった阿部宗孝、同校教師だった佐々井信太郎早稲田大学の講師をしていた河野桐谷、郷土研究家の尾崎荘三倉橋連之祐らと小田原史談会を結成し、毎月例会を催した(2)

1926年(大正15)4月(2)ないし5月(1)、東京・下谷(1)ないし谷中の天王寺(2)へ移住した(1)(2)

記念室と童謡碑

1955年(昭和30)頃、小田原の有志の間で記念館の建設が計画されたが、資金などの事情から、郷土文化館に白秋記念室を増設、伝肇寺の「みみづくの家」跡に童謡碑赤い鳥記念碑)を建立することになり、1957年(昭和32)5月26日に童謡碑の除幕式と記念室の落成式が行われた(2)。このとき、菊子夫人から記念室に遺品や資料が寄贈された(2)

小田原時代の逸話

  • 「木菟の家」の洋館(白秋山荘)が落成したとき、自らデザインした、背中に木菟の絵、腰回りにローマ字で「みみづく」という字をあしらった印半纏を職人全員に配り、大園遊会を開いて、東京から呼び寄せた芸者と小田原の芸者を手古舞姿に仕立てて町の中を練り歩かせるなど、派手な落成祝いを行った(2)。しかしお金はあまり無かったらしく、屋根屋の門松福太郎を呼んで、屋根代が半分しか無いから支払いを待ってほしいといって、代わりに詩画を作って渡した(2)。大工の込山吉五郎方にも短冊(と印半纏)が保存されていた(2)

  • あわて床屋」は行きつけの理髪店で髪を切ってもらっているときに着想が湧いて作ったという逸話がある(2)

  • 小田原中学校の地理の教師をしていた堀江重次へ使いをやって、雲の詩を作るのに参考にしたいから雲の本を2,3冊貸してほしいと言ってきたことがあった。早速貸したところ、数日後に借りた本に付して『雲の歌』の原稿が送られてきたが、その詩の一節一節に雲の学名が付けられていた。この原稿は堀江から郷土文化館に寄贈された。(2)

参考資料

  1. 播摩晃一「近代文芸の先駆北村透谷」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、26-27頁
  2. 石井富之助「3 北原白秋」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、88-93頁

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