大久寺 入り口大久寺(だいきゅうじ)、宝聚山随心院は、城山4丁目にある日蓮宗寺院。本尊は三宝四菩薩・諸尊(1)(5)。開山は日英(三河国の人、慶長15・1610没)、開基は大久保忠世(文禄3・1594没、法号:日脱了源院(2)(1)。江戸時代には越後三条・本成寺の末寺だった(1)

沿革

創建

大久寺 本堂天正18年(1590)に大久保七郎右衛門忠世小田原城に封ぜられたとき、遠州二俣(浜松市天竜区二俣町)に住居していた僧・自得院日英(三河国の人、慶長15・1610没)を招請して、しばらく石垣山豊臣秀吉の陣所跡に住まわせていた(1)

  • 『風土記稿』のとき、石垣山の三の丸跡には、「聖人屋敷」という場所があるといわれていた(1)

日英が日々(小田原城へ)伺候していたため、忠世はその老身に配慮して現在の場所に寺地を与えて大久山保聚寺と名付け、廩米200石を附して菩提寺とした。(1)

翌天正19年(1591)に堂宇が落成し、のち忠世の指示により、山寺号を宝聚山大久寺と改めた。このため、開山は日英、開基は忠世とされている。(1)

大久保忠世は文禄3年(1594)9月15日に小田原城で没し(享年63)、大久寺に葬られた。法号:日脱了源院。(2.1)

再興

慶長19年(1614)に(2.2)(大久保)相模守忠隣が江州(近江国)へ配流となった後、追悼行事も行われず、寺院は次第に衰退していった(1)

寛永10年(1633)(下谷大久寺の記録では寛永7年・1630)、5世・日霊のとき、石川主殿頭忠総(忠隣の次男で、石川日向守家成の養子となった(2.3)が江戸・下谷に移転させて菩提寺とした(2020年現在、東京都北区田端にあるもよう(3)。小田原の寺跡は風祭村妙覚寺の日春が購入し、下総中山・法華経寺の末寺・了源寺を建立した。(1)

しかし、大久保新八郎康任が(箱根?熱海?)温泉に入る前に小田原を通過して、大久保氏の寺院の再興を思い立ち、石川忠総と相談して、翌寛永11年(1634)に了源寺を廃止し、大久寺を再興したという(1)

寛永17年(1640)に境内の土地を町屋および道敷(道路)にし、また正保2年(1645)に足軽長屋とした。その代地はいずれも板橋村内に与えられた(1)

中興は覚正院日歓(万治3・1660没)(1)

什宝

狩野芳崖筆『普陀岩上円通大士』の掛軸があった(5)

境内

1970年当時、境内は656坪(約46.6m四方)、建物は本堂56坪(約13.6m四方)、庫裡、山門(5)

番神堂

境内の番神堂には、(三十番神のほかに)文禄3年(1594)8月に日英が勧請したという衛護神2体も安置されていた(1)

鐘楼

境内の鐘楼には、延宝3年(1675)鋳造の鐘が掛けられていた(1)

大久保一族の墓所

境内に小田原藩主だった大久保氏の墓所がある(2022年調査)

年中行事

おだワクマルシェ

2022年3月3日に大久寺で南町花園幼稚園の保護者が実行委員となっておだワクマルシェが開催予定とされている。地元の20店舗が参加して物販を行うほか、絵本の読み聞かせや、緑茶の淹れ方のワークショップなども実施の予定。2021年にも開催されたもよう。(4)

寺紋

旧本堂屋根鬼瓦の寺紋(大久保藤寺紋は大久保藤(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 『風土記稿』
  2. 堀田正敦ほか『寛政重修諸家譜』巻第707 大久保 宇都宮支流(藤原氏道兼流) 続群書類従完成会版、1965、巻第11
    1. p.377 (大久保)忠世
    2. p.381 (大久保)忠隣
    3. p.381 (石川)忠総
  3. 法華宗(陣門流)ホーム > 法華宗の寺院 > 関東教区、最終更新 2020年9月25日
  4. おだワクマルシェ関連
    1. 小田原市・大久寺で「おだワクマルシェ」開催!絵本の読み聞かせやワークショップも【3月3日(木)】レアリア、2022年3月2日
    2. マルシェで笑顔に 3月3日、大久寺で開催タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2022年2月26日号
  5. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.422