水源地建設問題(すいげんちけんせつもんだい)は、明治後期から昭和時代戦前にかけて、小田原町上水道の水源地建設(敷設)計画で建設候補地とされた湯本町足柄村で発生した建設反対運動と、それによる建設計画の変転の問題。1933年(昭和8)には、県による試掘が進められた足柄村の富水地区で、住民による騒擾事件が起き(足柄騒擾事件)、水源地問題をめぐる小田原町と足柄村の諍いは、小田原市が発足する直前の1940年(昭和15)9月まで続いた。

コレラ・赤痢の流行

明治時代、小田原町では夏場によくコレラが流行し、また1897年(明治30)から1902年(明治35)にかけては、毎年のように赤痢が流行した(1)。感染症流行の原因は、早川から取水している小田原用水の水質に衛生上の問題があるためだと早くから認知されていた(1)

1929年(昭和4)の『小田原町水道調査報告』において、早川は、上流で大涌谷の渓流を合流し、更に下流には沿線に強羅宮ノ下底倉塔之沢などの温泉地があって旅行客も多く、浴場の排水や旅館・料亭の排泄物など下水がほとんど全て河川に流入していたため、水質汚濁の原因となり、下流の荻窪堰取水口附近では県の基準を著しく超過していて、水道の水源として不適とされていた(3)

須雲川水源計画

そこで、小田原町では、新しい水源からの水道敷設を計画した(1)

1909年(明治42)に、湯本村須雲川からの取水案が策定され、同年5月に小田原町から内務大臣あてに「稟請書」が提出された(1)。須雲川水源は、湯本茶屋から三枚橋山崎入生田風祭および板橋を経て、小田原町十字4丁目の浄水場(1994年当時の小峰配水池)へ引水、将来的な人口増加を予測して27,000人に対し1人1日3(m3)を供給し、総工費29万円でその1/4を国の補助金で賄う計画だった(1)

しかし、国への補助金の申請は却下され、水道敷設への反対運動もあって、計画は頓挫した(1)

1927年(昭和2)の小田原町会において「小田原水道町営案」が満場一致で可決された(5)。また1929年(昭和4)6月に上水道敷設委員20人が推薦された(5)。こうして小田原町の上水道敷設の動きは強化され、当初は須雲川水源に関して湯本町と交渉を重ねたが、同町からの反対に遭い(5)、湯本出身の県議の反対などもあって(4)、1927年(昭和2)から1932年(昭和7)にかけて県の認可申請が棄却された(6)

富水水源計画

1929年(昭和4)の『小田原町水道調査報告』において、富水栢山堀ノ内附近の鑿井(さくせい、掘った井戸)を水源とする計画は、相当湧水があると認められていたが、標高が64,5尺(19-20m)であることから、小田原町内に配水する場合、荻窪小峰の高地へ揚水するのに水道管理費(毎年約5万円以上)がかかり、不経済とされていた(3)

しかし、須雲川を水源とする計画を断念せざるを得なくなったことから、1932年(昭和7)11月、新たに水源を足柄村内の富水地区に求める案が浮上し、敷設候補地の飯田岡で交渉が開始された(2)(5)。小田原町は、飯田岡で交渉が難航したことから、候補地を清水新田に移して部落の承認を得(7:79)、清水新田を水源とする水道敷設計画を策定して、1933年に着手して1936年に完成する案を町会で議決し、国に起債許可を申請した(6)

これに対して、飯田岡を中心に、富水地区で既設の井戸水や灌漑用水への影響を懸念し、水源地に反対する活動が開始された(5)

1933年(昭和8)3月、小田原町の水道敷設計画・起債に内務省・大蔵省の認可が下りた(2)(5)(6)

同年4月、足柄村富水地区13部落は、水源地反対決議を小田原町に提出し、県や内務省に反対の陳情を行った(5)

同年5月、県は、内務部長名で水源地の実地調査を開始する旨の通牒を発し、県土木部は同月27日と翌6月11日に調査を実施(5)。同年6月25日に狩川仙了川の合流点で試掘を開始した(2)(5)。それまでの反対陳情に対して回答がないまま試掘まで行われたことから(5)、「県は小田原町に肩を持つ」と受け取られ(4)(5)、反発した富水地区の住民約40余人は、足柄村長に、村としての建設反対を決議するため、村会を開催するよう要求した(2)

同年7月12日、村議・区長協議会で、飯田岡ほか6部落の消防組が提案した「全村としての反対」が、「時期尚早」との理由で研究委員に附託となった(2)

同月14日未明、富水地区の消防組員ら300余名は、清水新田に設置された県の試掘小屋とボーリング用の櫓を破壊し、建設に賛成した村の有力者4人の家を破壊。また駆付けた警察官にケガをさせるなどし、駆け付けた小田原署の警官隊によって約250人が検挙された(足柄騒擾事件)。

事件は個人的な動機というよりも地域全体の意思表示と見なされて広く同情を集め(2)、事件後、足柄村は、村内の意見を調整するため村会を開催し、小田原町水道水源地選定反対を決議し、小田原町に提出した(5)

足柄下郡町村会は、事件被告人の減刑請願を行い(2)(5)、また事件の責任者として足柄村長と小田原町長に辞職を勧告した(5)。同年12月4日に、被告人(のうち)6人が釈放された(5)。(時期不定で)足柄村長は引責辞任した(5)

1934年(昭和9)1月に、小田原町と足柄村の間で水道水源地に関する交渉が行われ、同月31日に協調覚書に調印がなされた(5)

  • 星野2001は、足柄村との間で「最終的な交渉」が行われたとしているが(5)、『片岡永左衛門日記』の同月16日の記述によると、清水新田(部落)との交渉が成立し、小田原町内で着工が承諾されたに過ぎないようでもある(4)

同日、横浜地方裁判所での刑事裁判で、被告人33人に、2年6ヵ月をはじめとする懲役刑(実刑5人、執行猶予28人)、25人ないし24人に、40円をはじめとする罰金刑の判決が言い渡された(2)(5)

小田原町による上水道敷設工事(飯田岡水源の掘削)は着実に進行し(2)(5)、同年4月に、6本の削泉が放流を開始した(2)

水源地問題をめぐる小田原町と足柄村の諍いは、その後約7年間続き、小田原市が発足する直前の1940年(昭和15)9月に解決に至った(2)

参考資料

  1. 播摩晃一「小田原町のコレラ流行と水道問題」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、28-29頁
  2. 播摩晃一「足柄騒擾事件」同書78-79頁
  3. 「178 小田原町水道調査報告 昭和4年(1929)」『小田原市史 史料編 近代II』小田原市、1993、378-383頁
  4. 「179 片岡永左衛門の小田原町水道問題に関する記録(1)~(3)」同書383-385頁
  5. 星野2001:星野和子「町営水道水源地をめぐる足柄騒擾事件」『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001、482-483頁、I 近代 第13章 第5節 都市化の進行と社会運動
  6. 金原左門「水道行政から小田原振興へ」同書505-508頁、I 近代 第14章 第1節
  7. 平塚昌一・井上春江他「青年団と婦人会 戦前の活動」富水西北史談会 編『富水西北の歴史 第2巻』富水西北公民館、1985・昭和60、77-94頁

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