札幌を囲む三つの港からみた歴史の考察

石狩河港、小樽港、室蘭港

 

松浦武四郎は豊平川を遡って札幌に着いた

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近藤重蔵がアイヌの協力をえて択捉の開拓を行ったあと、1807年に幕府に対して、札幌を重視するように提案している。石狩川と支流を道にすることで、北海道各地に行き易いので、北海道を治めるには、府を函館から石狩平野の札幌や当別に移すのが良い。港は小樽が適していると指摘してる。

1857年に松浦武四郎が石狩川、豊平川を遡り、札幌を京都に例え、当時の豊平川が石狩川に合流した地点の対雁を伏見に例え、石狩河口を大坂に例えている。

 

 

京都周辺の水の道

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北海道神宮と琴似川 アイヌは穏やかな支流のほとりに暮らした

北海道神宮のサイトに「コタンベツの丘とは現在の北海道神宮の背後の丘です」という記述がある。北海道神宮が札幌神社という名前で、社殿を構えるのは1871(明治4)年のこと。それまではアイヌ達が周辺をコタンペッと呼んでいた。コタンは村、ペッは川や土地などにつく言葉。苫前町に古丹別という集落がある。この集落を観ると、古丹別川に注ぐ大きな支流に寄り添うところにあるのがわかる。アイヌは暴れる大きな川を道、漁場、港として使うために穏やかな支流に村をつくる傾向があるとされ、その支流と集落をコタンペッと呼んでいた可能性がある。

北海道神宮の近くには琴似川が流れていて、かつては豊平川(サッポロペッ)の大きな支流のひとつであった。アイヌがこの地域をコタンペッと名付けたころ、扇状地の上を東西に移動していた豊平川はもっと近くを流れていたかもしれない。アイヌの集落は川で繋がり、大きなコミュニティを作る。川は日常の道であり、漁場であり、狩り場であり、交易の港であった。北海道神宮が置かれる前のコタンペッの集落からも海に向かって船を出していたと考えられる。

アイヌの古代文化は13世紀、鎌倉幕府との交易によって発展している。矢羽根にするオオワシの羽、武具、馬具につかうトドやアザラシの皮などを鎌倉にもたらし、富を蓄積していた。近世、江戸の初期には「蝦夷錦」が、江戸城へ上がる大名達の裃として流行していたとされている。これは清国の官服で、アイヌは山丹交易といわれるサハリン、沿海州との交易で入手していたとされる。

 

現在札幌を取り囲む港と空港

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幕末、札幌はすでに原野ではなかった

すでに北前船で栄えた石狩河口港と舟運と稲作の成功した大地に囲まれていた


 

石狩の江戸時代と石狩河港


石狩市によると、江戸時代の始まる1596年から1614年の慶長年間に松前藩によって石狩とその他の場所区画設定がなされている。一方、江戸期に入ると、加賀藩の百万石の米を若狭から陸揚げし、峠を越えて琵琶湖と淀川を水運して大阪に運ぶルートで米が集められていた。そして、人足代などを節約するために関門海峡を通る西回り航路に切り替えられる。これが北前船の航路となっていった。年貢米を運び、帰りに上方の荷物を積んでもどる。そこから発展して昆布、鮭、鰊、鱈など北海道の産品を運び、富を蓄積する商文化が日本海を覆った。北前船のもたらした巨大な富は、明治の資本主義経済建設の基盤となっている。


石狩市の年表では以下のように表記されている。
1688     元禄元    ・徳川光圀は快風丸を石狩に派遣し6月21日石狩に到着、アイヌと交易する。
1694     元禄7     ・松前家家臣山下伴左衛門、石狩川秋味上乗役として石狩弁天社(厳島神社)の創設を願い出る。
1755     宝暦5     ・飛騨屋久兵衛、石狩山のエゾヒノキ伐採を開始。石狩川河口に木場を設け、江戸、大阪に積み出す。


石狩市の歴史とは別に、
1767(明和4)年から1786(天明6)年の田沼時代、田沼意次により石狩平野の開拓が検討されていた。

1806 文化3     ・近藤重蔵石狩川を探索し「蝦夷地を治めるには石狩筋が第一の地」と報告する。
1811 文化8     ・伊達林右衛門、石狩海面サケ漁場を開く。
1821  文政4     ・幕府、蝦夷地を松前藩に返還。知行制廃止。
1845     弘化2     ・石狩川洪水。石狩場所請負人村山伝次郎は越後から治水に長じたもの19名を雇い、安政4年まで治水工事を行う。
1846     弘化3     ・松浦武四郎石狩に来る。この後安政5年までに4回来石。
1855     安政2     ・幕府、再び全道を直轄領とする。石狩役所が石狩に設置され、持場は積丹から増毛までとなり、サッポロも支配下となる。
1858     安政5     ・百戸を越える市街地。箱根奉行の直捌制。
1859     安政6     ・石狩役所をワッカオイに移し、役所を新築。樺太クシュンナイは、石狩役所の担当となる。
1863     文久3     ・8月 津波来襲。


石狩の川港が百戸を越える都市形成をしていたこと、幕末に津波にあったものの、その後、明治になってもしばらくの間、港として栄華をきわめていたことが金大亭などの存在で分かる。小樽も、元禄年間には、高島港、小樽港などが開かれていていて、北前船の寄港地、鰊漁で栄えている。

1866年(慶応2)年に大友亀太郎が函館奉行の命で札幌にはいり、御手作場建設に着手。大友堀を開削。30年分の農村経営の収支を堤出して自ら願い出たとされる。
1869(明治2)年、銭函から島義勇が札幌に降り立つ。
1880(明治13)年、手宮、札幌間に日本で三番目の鉄道が敷かれた。これを持って、石狩川、豊平川、創成川で取り組まれていた舟運はその終わりを迎えたといえる。

この年に石狩鍋が産まれている。石黒サカさんが新潟から石狩に渡って金大亭を創業した。押し寄せる観光客に歌舞音曲と地引き網体験、鮭づくしの料理などを提供していた。このとき数々の料理の最後に供された鮭鍋が後に石狩鍋と呼ばれるようになった。当時珍しかった洋野菜のキャベツと玉葱を使い、北海道では作られていなかった高級品の味噌を新潟から取り寄せ、山椒で仕上げている。


とはいえ、国土交通省の治水の切り口のサイトではあるが、石狩川の舟運が大正期まで続いていたことが伝えられている。
http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/kasen/10chisui100/ryuikishi/r1_04.html

 

 

 

札幌での稲作の成功


札幌で最も早く稲作に成功した早山清太郎にかんする記述がある。
札幌市北区の昭和50年当時の広報さっぽろの転載
 

1852(嘉永5)年 早山清太郎が郷里の福島県西白河郡から北海道に渡る。
1859(安政6)年 篠路に入地。この地方での産米に感激した函館奉行は、清太郎に賞金を与えた。

島義勇は「早山は……わが北海の主人なり」といった。

清太郎は島義勇を琴似川の上流部のコタンベッに案内し、札幌神社(後の北海道神宮)の場所を決め、札幌扇状地の扇端、現在の道庁の湧水に暮らすコツネイのコタン、本村といわれた大友亀太郎の御手作場、その北に広がる湿原と自らの水田、そして、石狩河口の港を見せた。

 

 


島義勇の観た札幌

島は稲作の成功した平原と北前船で賑わう石狩河港、天然の良港の小樽と室蘭を見ていた


佐賀城下は筑後川河口の水郷

島義勇は佐賀藩士。彼の生まれ育った佐賀城下を見ると、現在でも水路がのこる水郷である。沢山の水路は、農業の灌漑、洪水の吸収、舟運を支える近世社会の都市の重要な基盤であったと考えられる。佐賀城を巡る掘り割りは水路で有明海、筑後川と繋がり、対岸の柳川等、筑後川下流の巨大水郷都市連携が発達していたことが伺える。
 

 

佐賀市周辺、有明海と筑後川

 

開拓使、現道庁赤煉瓦庁舎を置いたのは、コツネイというアイヌのコタンのあった場所で、豊平川の伏流水が湧き、サクシュコトニ川の源となって、琴似川に流れ込んでいた。

開拓使の周りには掘り割りが巡らされる計画だった。アイヌたちがメムと呼んだこの湧き水から流れ出した川は現在の植物園、伊藤義郎邸、清華亭、北海道大学構内の湧き水をつないでいる。アイヌ達は現在の琴似に移動した。コツネイは琴似の地名の由来とされる。

 

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このような湧き水は豊平川扇状地の扇端にあたる現在のJR北海道函館本線周辺に多数存在していた。ここからいくつもの自然河川が豊平川や石狩川、そして、直接石狩湾へと向かい、アイヌ達は狩猟や交易の水路として活用していたものと考えられる。後に、官営のビール工場や雪印乳業などもこの水を利用して創業する。
 


作成:古川 泰人

 


石狩、小樽、室蘭の三港


島義勇の銭函から円山までの旅を案内したのは、既に琴似川周辺で水田作に成功していた自由農民の早山清太郎だとされている。島は少なくとも現在の札幌市西区、琴似川で灌漑した水田と現在の東区、亀太郎の御手作場を見ていることになる。北前船、鰊漁で栄えた岩場の小樽と同じように、北前船と鰊、鮭漁があり、石狩川を控え木場を有した石狩港を観ている。藩主の命で箱館奉行の下、樺太の探査にも出かけている。当然、室蘭の繁栄も良く知っていただろう。


室蘭は、江戸時代、やはり松前藩によりアイヌとの交易をするエトモ場所とモロラン場所が置かれていた。北前船の根室ルートの寄港地でもある。1796(寛政8)年、英国船「プロビデンス号」が絵鞆に入港。ペリーは1854(安政元)年に絵鞆に入港、測量を行っている。1872(明治5)年7月トキカラモイ(現在の緑町・海岸町3丁目付近)に木造仮桟橋が完成、10月から森との連絡航路が始まると技術がある。(室蘭市のあゆみ

英国人旅行家のイザベラ・ルーシー・バードが「世界で最も美しい港」「軍艦の入ることの出来る深い良港なので、住人にはにぎやかすぎて迷惑だ」と室蘭について記述したのは、1878(明治11)年の8月18日。室蘭と森の間の定期航路ができたのは1883(明治16)年だった。

島は京都を模して札幌を作ったとされ、直線の道路の碁盤の目や、円山、伏見といった地名が例に挙げられている。もう一度、794年の平安京成立以来、東京に首都を遷すまで千年続いた都の地勢と、札幌を比較してみたい。


京都は大坂まで水運で繋がる都市である。京都から一番近い山の迫った深い港は神戸。大阪は淀川を通じて琵琶湖に繋がる川港。そして、琵琶湖の北には急峻な山があるものの、短い陸路で日本海にリアス式海岸の良港が並ぶ。日本列島の地図を眺めると、本州の真ん中で一番海が陸を括れさせているところが、京都周辺であることがわかる。一方札幌は、国内で唯一、太平洋と日本海を結ぶ道にトンネルも峠もない、平野が二つの海を繋ぐ地域、石狩低地にあり、小樽と室蘭の深い港と内陸との水運を繋ぐ石狩の川港があった。街の中心部が海につながる水郷、太平洋と日本海に、深い港と平野を貫く大河と川港。

 

作成:古川 泰人

 

明治以降も排水と水運のため運河の開削が続く

五州一の都


島が当時夢想した「五州一の都」つまり、世界一の都とは現在で考えるとどんな姿になるだろう。
人口60万人程度でヨーロッパの中心的港とを言われるロッテルダムと札幌を同尺で比較してみたい。

 


 

ライン川河口から上流にむけて30kmに及ぶ港が整備されているロッテルダム。石狩川の江別、岩見沢。豊平川でいえば札幌市東区雁来、白石区菊水元町あたりまでを含めた巨大な港湾都市だ。ライン川上流にはドイツのルール工業地帯、及び、大量の乳製品や食肉を生み出す畜産地帯がある。石狩平野には日本有数の穀倉となる平野と炭田があった。

 

札幌と室蘭


開拓使が幌内の石炭を運ぶにあたって、当初ケプロンは室蘭港積み出を主張するものの、石狩港積み出しが比較された。結果は官営幌内鉄道(現函館本線)は当初の計画で石狩川沿い、現在の岩見沢市幌向地区に桟橋を造成し、線路を敷き舟運を行うことになっていた。石狩川特有の泥炭の地盤の悪さで川に近づくことが出来なかったため断念。計画変更し、鉄道は小樽に延長されている。一方で、夕張でも出炭したために、室蘭にも鉄道が敷かれ、室蘭は石炭と鉄で栄えることになる。


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洞爺湖サミットのときに当時の「ようこそさっぽろ」に書かれた英文の記事

 

Sapporo is located in the central part of Hokkaido, in Ishikari Plain, a rice production area facing the Sea of Japan. New Chitose Airport, Tomakomai Port, Muroran Port are situated in the agricultural plain of Yufutsu, which is the prolongation of Ishikari Plain to the South. In the Ishikari Bay in which ends the Ishikari River, lie the new port of Ishikari Bay, the city of Otaru, which has been prospering since the 19th century, and the ski-resort town of Niseko. All those places are connected to each others by Hokkaido Expressway, by National Highway number 5 and 36, or by Hakodate Hokkaido JR lines. They all can be reached within 2 hours.

 Toya Lake, where the G8 Summit is to be held from July 7th to 9th, 2008, is part of the Shikotsu-Toya National Park (dark green part on the map). A quarter of the park belongs to Sapporo City, whose population is about 2 million people, and where are established service, distribution and information companies and more than 20 universities or technical colleges. The city, where, as the capital of Hokkaido, are located public offices such as prefectural offices, is not only an economic but also an artistic and cultural centre. You will here spend wonderful time, enjoying a delicious cuisine made from the best food produced in the whole Hokkaido.

 It takes two hours and a half from Sapporo to Toya Lake, by the Dooh Express Way (approximatively 160 km). When you come to Sapporo for a job or an event related to the Summit, you will be friendly welcome by its citizens. Please feel free to stay in the city to rest after your long trip.


(Latest update: September, 2008,Mikio Sugiyama)


The above article was written for the Toyako Summit.
For harbor of four support Sapporo, please refer.