1907年(明治40年)麒麟麦酒株式会社は発足します。

「岩崎久彌傳」より

「麒麟麦酒株式會社は明治四十年二月、明治屋、日本郵船及び岩崎家の出資により資本金二百万円で出資冴えた。同社は実實上久彌の一諾によって設立された」(pp.537)
 

明治屋を開業した磯野計は、1879年(明治12年)東京大学を卒業後、彌之助の援助で英国留学し、三菱の神戸支社で働いたあと、独立している。欧米のいわゆる「舶来品」を販売。日本に欧米の食文化を普及した。この明治が、ジャパンブルワリーの「麒麟麦酒」を一手に販売していた。
 

1906年(明治39年)日本ビール、札幌ビール、大阪ビール、と合同して大日本麦酒株式會社が作られ、シェアの7割に達する大会社となったため、当時の明治屋代表の米井源治郎が、久彌にジャパン・ブルワリーを買収する旨を清国に向かう船上で懇願する情景が描写されている。