大久保 忠増(おおくぼ ただます、1656年 - 1713年)は、江戸中期の小田原藩主(在位:元禄11・1698 - 正徳3・1713)。父・忠朝から領地を継承。宝永4年(1707)の富士山の噴火で領地が降灰による被害を蒙り、宝永5年(1708)から幕府が被災地を直轄して復旧事業が行われることになり、替地を下賜された。

経歴

明暦2年(1656)生まれ。父は大久保忠朝、母は村越氏(2)

寛文8年(1668)3月1日、13歳のとき、4代将軍・徳川家綱にお目見え(2)

寛文10年(1670)12月28日、従五位下 安芸守に叙任(2)

延宝5年(1677)7月25日、雁間詰を命じられる(2)

天和元年(1681)8月16日、奏者番となる(2)

天和3年(1683)11月22日、下総国豊田、常陸国筑波の2郡のうちに1万石の領地を与えられる(2)

貞享2年(1685)7月22日から寺社奉行を兼務(2)

貞享4年(1687)12月18日、若年寄に転じる(2)。同日、隠岐守に改める(2)

元禄元年(1688)8月27日、職を辞し、所領1万石を公に還付する(2)

元禄11年(1698)10月16日、父・忠朝の領地を継承し、新墾田6千石を弟・長門守教寛に、4千石を宇津出雲守教信に分与(2)。同年11月1日に雁間詰の上首となる(2)

元禄13年(1700)12月21日、従四位下に昇格(2)

元禄14年(1701)2月28日、はじめて領地に赴任(2)

元禄16年(1703)11月29日、領地で地震が起き、被害が出たため、金1万5千両を貸与される(2)

宝永2年(1705)9月21日、老中となり、同月22日、加賀守と改める(2)。同年12月2日、侍従に昇進(2)

宝永4年(1707)11月に富士山が噴火(1:11)。宝永5年(1708)閏1月3日、前年の噴火で領地に砂石(火山灰)が降り、田地が荒廃したため、砂石を除去して復旧するまで、領地を収公され、かわりに伊豆、三河、美濃、播磨などの国々のうちに56,300石余を下賜された(2)

同年3月14日から、金穀出納(財務)を担当することになった(2)

正徳2年(1712)4月19日、諸家の領地と寺社領の御朱印を下す役を務めることになった(2)

正徳3年(1713)7月、病気にかかる(2)。同月25日、病状が重篤だったため職を辞し、同日死去、享年58(2)。法号:大空了通心観院(2)

遺領は同年9月12日に子の大久保忠方が継承した(3)

参考資料

  1. 市川幸雄「昔の小田原と西北4部落の成立」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、10-16頁
  2. 堀田正敦ほか『寛政重修諸家譜』巻第707 大久保 宇都宮支流(藤原氏道兼流) 続群書類従完成会版、1965、巻第11、384-385頁、(大久保)忠増
  3. 385頁、(大久保)忠方

Pages tagged “大久保忠増”

Add new "大久保忠増"