慈眼寺 本堂慈眼寺(じげんじ)、福聚山無量寿院は、城山2丁目にある黄檗宗寺院。本尊は三尊阿弥陀大久保氏内庵の1つ。江戸時代には山城国宇治郡大和田村(京都府宇治市五ヶ庄三番割)万福寺の末寺だった。(1)

縁起

大久保加賀守忠増は、元禄16年(1703)11月23日の大地震により、小田原の人々が多数横死したことを悼み、その追福のために一宇を建立しようと考えた。ちょうどそのとき府川に洞家(曹洞宗)の廃寺・西光寺があった。西光寺は、久野総世寺10世・香(光)[鹿香]が慶長15年(1610)に隠棲のために創建した寺院で、万治3年(1660)に香(光)[鹿香]が没した後、廃蹟となっていた。

  • 『風土記稿』 府川村 正応寺・西光寺蹟の項によると、伝室光[鹿香]は元和元年(1615)没(2)

そこで忠増は、西光寺の本寺・総世寺の住僧(18世(3)実全)と相談して、宝永元年(1704)に寺号を移すことを官に請願して、寺社奉行・阿部飛騨守正喬が対処した。同4年(1707)に許可があった。本多弾正小弼忠晴が対処した。そこで寺名を慈眼寺と改め、正徳元年(1711)に黄檗山の末寺となり、同5年(1715)に堂宇を造立し、僧・恵極を住職(享保6年・1721没)とした。恵極は、実質的な開山だったが、旧寺を引遷したため、中興開山とされていた。(1)

  • 『風土記稿』 府川村 正応寺・西光寺蹟の項は、実全が万治3年(1660)に小田原・谷津村に西光寺の寺号を引遷して慈眼寺を建立した、としている(2)

府川の字・天神下にあった西光寺の旧地・段別4畝4歩(34坪、約112m2)は、『風土記稿』の時には林となっていたが、除地で、慈眼寺が所有していた。(1)

領主から廩米30苞と金若干両、および久野の伊張山に山林53町(約52.6ha)を寄進されていた(1)

什宝

寺宝として、元禄大地震横死諸男女等の衆画を所蔵していた(6)

境内

慈眼寺 山門

鐘楼

享保21年(1736)4月に鋳造した鐘だった(1)

鹿島社

宝永元年(1704)の造立だった(1)

永代供養墓

2017年秋に「永代供養墓(合葬墓)」を開設(4)。2019年3月頃から散骨葬も受け付けている(5)

寺紋

寺紋は梅鉢(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 『風土記稿』
  2. 『風土記稿』 府川村 正応寺・西光寺蹟
  3. 総世寺本堂裏庭にあった2018年頃建立の歴代住職の墓碑の写し(2022年調査)は、元宝実全を19世としている。
  4. (PR)緑あふれる禅寺に永代供養墓タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2018年7月6日
  5. (PR)自然に還る散骨葬 小田原駅西口 慈眼寺で始まるタウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2019年3月1日
  6. 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、p.541